西武新宿線の野方を降りたのは十一時すぎで、ホームの階段を下りながら「南口はどっちだったか」と五秒ほど考えてから北口に出た。目指していたのは南だったので、商店街の入り口をくぐって反対方向に五分ほど歩いてから気づいた。引き返しながら「でも商店街も見られたからよかった」と自分に言い聞かせた。たぶんよくはなかった。八月の炎天下を人が避けているのか商店街は静かで、なかほどに八百屋があってゴーヤが三本百円で積まれていた。買う理由もなく通り過ぎたが、においだけがしばらくついてきた。
商店街を抜けると、急に道が細くなる場所がある。両側の家が少し後ろに下がっているような、妙な開け方をした路地で、地図を確認したら昔ここに水が流れていたとわかった。蛇行した暗渠跡で、今はアスファルトの下に眠っている。コンクリートの継ぎ目がほんの少しだけ曲がっていて、その曲がり方が川の曲がり方と同じだった、たぶん。川が流れていた頃、この路地には橋があったらしく、橋名を刻んだ石が今も歩道の隅に転がっていた。読もうとしゃがんだら通行人に目線をもらった。別に怪しくはないが、怪しくないと証明するすべもなかった。晴れているのに道がひんやりしていて、それだけで昔ここに水があったことが信じられた。
坂道に差し掛かったとき、左手に錆びた水色のシャッターを見つけた。もともとは別の色だったらしく、下の方に薄いオレンジ色が滲んでいた。何屋さんだったのかを書いてあった看板は文字だけが残ってブリキが脱落していて、「○○電機」の○○部分だけがきれいに消えていた。水色とオレンジの組み合わせが昭和っぽくて、写真を撮ってもうまく撮れないとわかっているのにシャッターを押した。帰って見たら逆光でほぼ真っ黒だった。消えた電機屋の名前と同じように。あのシャッターはもう開かないのだと思うが、閉まっていることで何かを内側に閉じ込めているような気もした。
昼前に喫茶店に入った。カウンターが四席しかなく、先客のおじさんが競馬新聞を広げていた。ブレンドを頼んだら少し時間がかかって、出てきたコーヒーはソーサーがほんの少し傾いていた。飲むと苦みよりも先に香りが来て、それからじんわりと苦くなった。冷房が効きすぎていて少し寒かったが、外の暑さを思うと出たくなかった。マスターは何も言わずにカップを磨いていて、競馬新聞のおじさんも一言もしゃべらなかった。静かな時間で、コーヒーが半分になった頃に外の蝉の声を初めて意識した。八月の終わりの蝉はどこか余裕がなく、それでも鳴いていた。
坂を登りながら、今日の目的は何だったかぼんやり考えた。野方から中井まで暗渠沿いを歩く、だったと思う。暗渠というのは地図の上でしか見えないものだから、実際に足で追おうとすると大体こういうことになる。中井の駅に着いたとき地図を確認したら、私が歩いたのは暗渠から少し外れた別の路地だった。本物の暗渠は二本となりにあって、ずっと並走していたらしい。つまり今日はただ普通の住宅街を歩いたことになる。次回は本物を歩けばいい。
中井の駅についたのは二時を過ぎていて、万歩計を見たら一万三千歩だった。足の裏が蒸れているのがわかったので、電車のなかでノートに「次は靴下を替える」と書いた。そのノートをリュックにしまいながら、野方の商店街で何も買わなかったことを思い出した。引き返した甲斐がなかった。でも、コーヒーはおいしかった。電機屋のシャッターのことは、水色とオレンジ、とだけ書いた。それで十分な日もある。
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