洗濯機が回り始めると、水の音だけが残った。
深夜二時のコインランドリーには、ほかに客がいなかった。蛍光灯がひとつ、天井のどこかで瞬いては落ち着く、を繰り返している。窓の外は雨上がりで、アスファルトに街灯が細長く映っていた。隅に置かれた自販機がかすかな唸り声を上げていて、それだけが時間の流れを告げていた。プラスチックの椅子に腰かけ、ガラスの向こうで回る衣類をしばらく眺める。何も考えないでいられる、数少ない時間だった。
明日、この街を出る。段ボール箱はすでに宅配業者に渡してある。家具もほとんど処分した。三年住んだ部屋は、最後に見たとき、床と壁と天井だけになっていた。残ったのは、今夜着ていた服と、クローゼットの奥で眠っていたジャケットひとつだった。捨てようかと思いながら、結局、籠に放り込んで持ってきた。三年前に買って、二年前からほとんど着なくなった、紺色のジャケット。それさえ洗えば、ここに置いていくものは何もない。そう考えたとき、妙な軽さのようなものと、説明のつかない重さのようなものが同時に胸にあった。引っ越しとはいつも、そういうものだった。
ポケットに手を入れたのは、ただの癖だった。
指先に、金属の感触があった。
鍵だった。自転車の小錠に使うような、小さな型の鍵。親指の爪ほどの大きさで、数字の「3」という刻印がかすかに読み取れる。どれくらい洗濯されずにここにいたのかわからないが、端のほうにうっすらと赤錆のような変色があった。蛍光灯の光の下で見ると、金属の色とも錆の色とも言えない、曖昧な色をしていた。何の鍵なのかは、見当もつかなかった。
自転車の鍵にしては小さすぎる気もした。日記帳の錠前か、小さな宝石箱か。子どもが持ちそうな、何かの鍵。しかしその子のものですらなかったのかもしれない。そう考えると、話はもっと複雑になる。
いつのものか、すぐにはわからなかった。しばらく手のひらの上で転がして、その重みのなさを確かめながら、それから、思い出した。
小学六年の秋のことだ。隣のクラスの男の子が、廊下で突然「これ、預かっていて」と手渡してきた。名前は覚えていない。細くて眼鏡をかけていた、それだけが残っている。なぜ預けるのか、理由は一切言わなかった。こちらも聞かなかった。ただ、その子の顔が妙に真剣だったから、受け取っておかなければならないような気がしたのだ。二週間後、その子は転校した。返す機会は来なかった。そのままランドセルのポケットに入り、いつか部屋の引き出しの奥に移り、長い時間をかけてこのジャケットのポケットまで辿り着いたのだろう。それが十八年前のことだ。
洗濯機がゆっくりと減速して、止まった。衣類を取り出すと、まだ少し熱かった。ジャケットを畳みながら、鍵をまたポケットに入れた。捨てる気になれなかった。もとの持ち主はとっくに別の鍵を使っているだろうし、あの自転車もとっくにない。それでも、預かったものを勝手に捨てることは、どこかで許されていないことのような気がした。受け取ったとき、「わかった」と言ったかどうかも覚えていない。ただ手を出して、受け取った。その事実だけが、ずっとここにある。
コインランドリーを出ると、雨上がりの匂いが低く漂っていた。六月の夜の、あの青くさい匂い。明日の朝にはこの街を離れる。この匂いも、この蛍光灯の光も、この自販機の唸りも、もう戻っては来ない。それでも、ポケットの中の「3」だけは、次の街にも連れていくことになる。十八年前の廊下で手を出した、あの一瞬ごと。
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