フィッシュマンズ「LONG SEASON」(1996年)は、最初の四小節で何も始まらない。シンバルが静かに刻まれ、ベースが一音を保持したまま動かない。「始まり」のように聞こえるが、それはむしろ「すでに続いていた何かへの参入」に近い感触だ。そのまま35分以上、テンポも編成も大きくは変わらないまま、時間だけが静かに引き伸ばされていく。最初に聴いたのが何年前だったか、もう定かではない。昨夜また通しで聴いて、その感覚を確かめるつもりだった。
昨夜は中野の部屋で深夜にヘッドフォンをつけて再生した。外では雨が降っていて、窓のアルミサッシが低い振動音を立てていた。最初の十分ほどは雨音が気になっていたが、気づいたときには録音の空気と外の湿気が分けられなくなっていた。このアルバムの録音は空間の輪郭を意図的に曖昧にする作りになっていて、残響とディレイが重なることで音の発生点が定まりにくい。部屋の内側にいるのか外にいるのかすら、ふとした瞬間に分からなくなる。その設計が、偶然に混入した環境音まで飲み込んでしまう。インイヤーよりも密閉型のオーバーヘッドの方が、この録音の空気感には合っているかもしれない、とあらためて思った。
この曲が試みていることは、歌の構造よりも「持続する状態を生成すること」だと私には聴こえる。サビらしいサビも転調もない。変化するのはドラムとベースの上に乗るテクスチャーで、それが少しずつ厚くなったり薄くなったりしながら時間を押し広げていく。佐藤伸治の声は言葉の意味を前に出すより、音韻の配置と息継ぎの間隔で空間を彫刻している。歌詞を意味として追おうとすると、逆に曲の固有の時間感覚から離れてしまう。聴き方を変えると、曲の感触そのものが変わる。声はここでは言語の担い手というより、空気の密度をわずかに変える楽器として機能している。
レゲエとダブの構造を下敷きにしているが、ジャマイカ音楽の開放的なグルーヴとは異なる方向に向かっている。省略と残響というダブの手法を借りながら、その効果を外への発散ではなく、音の内側への沈降として使っている。ギターはほとんどカッティングに徹し、時折コードが浮かんでは消えていく。音圧はそれほど高くないが、ヘッドフォンで聴くと左右の定位の微細な変化が少しずつ分かってくる。音が動いているというより、自分の位置感覚の方がずれていくような感触だ。聴き続けるほど、部屋の境界が溶けていく。
惜しい点を挙げるとすれば、終盤の処理だ。35分かけて積み上げてきたダイナミクスが、最後の数分でやや所定の場所に戻ってしまう印象を受ける。「終わり方が見つからなかった」という種類の後退に少し映る。もっとも、「終わらないこと」そのものを35分かけて演奏してきた曲がどう終わるべきかは、正直わからない。終わらせないまま止めることと、終わらせることは、この曲においては同じ問いなのかもしれない。そう思い直すと、あのフェードアウトも別の意味を持ちはじめる。
バンドの時間軸で言えば、前作「空中キャンプ」(1995年)からの流れで聴くと、フィッシュマンズが「歌」の外側をどう探していったかの軌跡が鮮明になる。一枚で完結しているが、文脈の中で聴くとより輪郭が増す。佐藤伸治が亡くなる三年前の作品として聴くことは、今となっては避けられないが、この曲はその事実を知らなくても十分に成立する。それが作品の強度だとも言えるし、かえってそれは意地悪な評価の仕方だとも思う。
「LONG SEASON」を聴いた後は、しばらく別の音楽に戻れなくなる。中毒性というよりも、別の時間の流れ方に慣らされてしまうからだ。標準的なポップスの四分は、その後しばらく短すぎると感じる。再生が終わっても、その感覚が部屋の中にしばらく残る。今夜もう一度かけるかどうか、まだ決められていない。
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