夜の八時すぎ、自室の照明を落とし、ヘッドフォンをつけて再生した。本来は夕方に近所のミニシアターへ行くつもりだったが、梅雨前線が引きずる重さが体に残っていて動けなかった。モニターの輝度を二段階下げ、部屋の気温を少し落としてから、ウィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』(2023年)を始めから観直した。劇場で観てから一月あまり経っていた。
冒頭、主人公の平山(役所広司)が薄暗い室内で目を覚まし、ゆっくりと扉を押し開けて空を仰ぐまでの数十秒。台詞も説明もなく、夜明けの光だけがある。ここで映画はほぼすべてを言い終えているように感じた。繰り返される朝の動作——植物への水やり、小銭をポケットへ収める仕草、自動販売機で缶コーヒーを取り出す瞬間——は物語の導入ではなく、それ自体がすでに映画だ。一日の始まりをこれだけ丁寧に撮ることが、作品全体の宣言になっている。役所広司はほとんど表情を動かさないが、動かさないことで画面の空気が変わる。感情を見せないのではなく、感情を空気に変える演技だ、と今回の再見で改めて思った。
音楽の扱いについて、この映画は「選曲のセンス」で語られることが多い。しかし私には、カセットを「再生する行為」を撮っている映画に見えた。平山はテープを気分によって取り替えない。ルー・リードの「Perfect Day」が流れる場面では、歌詞の意味よりも録音の物質感——テープのヒスノイズと、少し曇った中音域の質感——が窓から差し込む新宿の朝の光と溶け合っていた。アニマルズの「House of the Rising Sun」もそうで、楽曲が映像に意味を付与するのではなく、音のテクスチャーが場面の空気になる。選曲が正解なのではなく、「その音がそこに流れていること」が正解なのだ。ヘッドフォンで再見したことで、テープの粗さが劇場より耳に近く、画面の光と密接に呼応して聴こえた。楽器の音が空間に拡散せず耳に直接届く分、録音の物質感が鮮明になる。環境音との境界が薄くなる感じ、と言えばいいか。