十条駅の北口から出た瞬間、人の密度がすっと変わった。南口はロータリーがあって自転車と宅配便がひしめいているのに、北口は静かで、商店街の入り口だけがぽっかりと口を開けている。どちらが「表」なのか、たぶん...
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十条駅の北口から出た瞬間、人の密度がすっと変わった。南口はロータリーがあって自転車と宅配便がひしめいているのに、北口は静かで、商店街の入り口だけがぽっかりと口を開けている。どちらが「表」なのか、たぶん...
今日のターゲットは、阿佐ヶ谷から桃園川の暗渠を辿って高円寺まで歩くことだった。地図上の距離は六キロ弱で、「軽い午前中の散歩」のつもりで阿佐ヶ谷駅に降り立った。改札を出た瞬間、なぜか北口に立っていた。南...
西荻窪を起点にしたのは、荻窪との境がよくわからないからだ。毎回「あれ、もう荻窪か」とスマホを確認するはめになる。実際、地名の境界線がどこにあるのか、長く住んでいる人でも説明できないんじゃないかと思う。...
水曜日なのに有給を取った。理由は特にない。強いて言えば、先週からずっと気になっていた暗渠を歩きたかった、それだけだ。蛇崩川の跡を池尻大橋から三軒茶屋まで歩く計画を立てた。「計画を立てた」というほどのも...
今日は五反田駅の南口を出て歩き始めた。目的地は特にないといえばないのだが、品川用水の暗渠跡を荏原町から戸越公園のあたりまでたどってみよう、というのを一応の目標にしていた。九月の日曜日で、まだ蒸し暑かっ...
東長崎で降りたのは、単純に名前が気になったからだ。「東長崎」という地名が東京の真ん中に存在していることへの軽い驚きが最初に来た。改札を出てみると駅前は小さなロータリーと自転車置き場で、長崎要素は皆無だった。期待していたわけでもないのに、少しだけ「ああ」という気持ちになった。名前と場所のズレは、いつもそういう気持ちを引き起こす。
スマホの地図を確認して北へ歩くつもりだったのに、十分後には完全に南方向に進んでいた。自分でも気づかなかった。引き返す途中でなだらかな下り坂があって、坂を降り切ったところで緩くカーブした緑道に出た。幅は二メートルほどで、舗装されているが車は入れない。両側に低い柵があって、柵の向こうはすぐ民家の裏庭だった。案内板は特になかったが、道の両側の家が微妙に後ろを向いているような、川が消えてもなお残っている「向き」があった。このあたりには千川上水という旧水路があったはずで、暗渠跡だろうと当たりをつけた。根拠は感触だけなので「らしい」の域は出ないが、そういう感触はだいたい当たっている、たぶん。
緑道の途中で、建具屋のシャッターに「建具一式承ります」と書かれた看板があって、文字のうち「具」の字だけが明らかに白さが違った。周囲の文字はくすんでいるのに、その一文字だけ最近塗り直したように光っていた。看板全体ではなく、一文字だけを直した人がどこかにいる。コストの問題か、こだわりの問題か、それとも単に「具」の字が一番欠けやすかっただけなのかは分からない。理由はどれでもよくて、そういうことをする人が世の中にいるという事実が、理由なくよかった。しばらく立ち止まって眺めてしまった。通りかかった宅配便のドライバーが、立ち止まって看板を見ている男を訝しそうに見た。
緑道が終わって住宅街に出たところで、小さな公園の脇を通った。ブランコが二台あって、夕方前だというのに誰もいなかった。ベンチに座ってノートを取り出したが、書けたのは「建具の具」の四文字だけだった。十月末の公園は、夏の騒がしさも冬の寒さもなく、ちょうど端境期の静けさがある。気温がちょうどよくて、日差しが斜めになっていて、こういう午後は歩くのに向いているが、書くのには向いていないのかもしれない。
江古田の駅のそばで喫茶店に入った。入り口のドアが重くて、最初は閉まっていると判断したが、よく見ると引き手に「開」と書いたプレートがあって、引く方向を押していただけだった。カウンターが四席とテーブルが二卓だけの店で、午後二時なのに常連らしい人が二人いた。片方はスポーツ新聞を読んでいて、もう片方はただ窓の外を見ていた。コーヒーを頼むと少し待ってからサイフォンで出てきた。ガラスのフラスコから細い湯気が上がるのを見ていると、十月の終わりという季節はこういう光景に似合うな、と思った。もう少し寒くなればさらに似合う気がする。コーヒーを飲み終えてもしばらく座っていたが、店主も何も言わなかった。
帰りの西武池袋線でノートを開いたら、「建具の具」とだけ書いてあった。もう少し書き足そうとしたら池袋に着いた。乗り換えて、帰宅して、いまこれを書いている。四行分くらいの思考が「具」という一語に圧縮されているはずなのだが、解凍しようとしても建具屋のシャッターの画像しか出てこない。圧縮したものが元に戻らないのは、いつものことだ。今日の暗渠の「向き」も、サイフォンの湯気も、たぶん同じように圧縮されていて、少し経ったら出てこなくなる。
#街歩き #暗渠 #喫茶店 #練馬