朝、駅まで歩いていると、前方の路面がゆらゆらと揺れて見えた。遠くのアスファルトが水面のように光って、まるで薄く水が張っているようだ。いわゆる「陽炎」だが、今日は気温が35度に迫るほどで、その揺らぎがやけに鮮やかだった。毎年見ているはずなのに、ふと「なぜ光が曲がるのか」を自分の言葉で整理できるか試してみることにした。炎天下の通勤路が、今日は思考の出発点になった。
疑問を一文にすれば、「熱い路面の近くで空の光が曲げられ、地面から届いているように見えるのはなぜか」だ。観察されている事実として、これは晴れた夏日の舗装路に繰り返し現れる現象で、遠方ほど顕著になる。
答えの骨格は、空気の屈折率の空間勾配にある。屈折率(refractive index)とは、ある媒質での光の速度が真空と比べてどれだけ遅くなるかを表す無次元数で、空気の場合は標準状態(0°C、1気圧)でおよそ 1.000293 だ。真空の 1.000000 に非常に近いが、この微小な差が空間的に変化していると、光の進む向きが少しずつ変わっていく。池の底が浅く見えるのと同じ屈折だが、あちらは水と空気の明確な境界で起きる。陽炎では境界がなく、連続的な勾配が光を曲げる点が異なる。
屈折率が密度に依存しているのがポイントだ。理想気体として扱えば、同じ圧力のもとでは密度は絶対温度に反比例する。温度が上がると分子の間隔が広がって密度が下がり、屈折率は 1 に近づく(真空に近くなる)。熱い路面の直上には高温の薄い空気の層があり、その上には少し冷たい層が続く。地面に近いほど屈折率が低く、高さとともに屈折率が増す、なだらかな勾配が生まれる。
光はこの勾配の中で、屈折率の低い側(暖かい空気)から高い側(冷たい空気)へ向かって曲がっていく。スネルの法則を連続的な媒質に拡張した考え方で、一般的な幾何光学の範囲に収まる。空から低い角度で差し込んだ光が路面近くの低屈折率の層に入ると、少しずつ進路を変えて上向きに出てくる。遠くから見ている私の目には、この曲がった光が「路面の近く」から来ているように見えるため、まるで地面が空を映しているように感じられる。これが下位蜃気楼と呼ばれる現象で、機構については教科書的に確立していると思う。
数値でオーダーを確かめてみる。路面直上の高さ 5cm の層での温度差を ΔT ≈ 30°C(303 K → 333 K)と仮定すると、屈折率の変化量は (n−1) × (ΔT/T) ≈ 3×10⁻⁴ × 0.1 ≈ 3×10⁻⁵ ほどになる。単位距離あたりの勾配 dn/dz は約 6×10⁻⁴ /m で、光が水平に 10m 進む間に受ける偏角はざっくり 6×10⁻³ rad、すなわち 0.3 度程度だ。太陽の視直径が約 0.5 度であることを思うと、空の像が路面付近に「着地」するには十分な量で、数値的にも筋が通る。
まだ答えられていないことがある。あの「揺らぎ」の速さはどこから来るのか。温度分布は風や熱対流で常に乱されており、そのゆらぎが光学的な揺れとして現れると考えられる。体感では数 Hz 程度に見えるが、乱流の詳細な時間スケールは流体力学の領域で、自分では数値を出す自信がない。星のまたたき(シンチレーション)も大気の乱流が原因と言われているが、路面付近のスケールとどう比較するかまでは言えない。ここは「分からない」として保留しておく。
通勤路のアスファルトが、今日は屈折率勾配のフィールド実験場になっていた。数式を頭に浮かべながら歩く夏の朝も、悪くない。
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