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深夜のコインランドリーに、彼女ひとりだった。
雨はつい先ほどまで降っていて、ガラス扉の向こうの舗道には街灯の黄色い光が長く滲んでいた。空気はまだ湿っていたが、店内は機械の熱で温かく、どこかの洗濯機が低く唸りながら回っていた。彼女は持ってきた洗濯物をドラムへ押し込みながら、いつものようにポケットを確かめた。デニムのポケット、Tシャツのポケット、最後にジャケットの内ポケットへ右手を差し入れた。指先に、硬いものが触れた。
鍵だった。
小さな銀色の鍵で、丸く削った木の板がキーホルダーになっていた。板には彫刻刀のゆがんだ跡で「あと一回」と彫ってある。彼女はしばらくそれを手のひらに乗せたまま、立っていた。背中の洗濯機が振動し、その揺れが床を伝って足の裏から膝あたりまで上がってくる。壁際の自販機がぶうんと唸り、また静かになった。蛍光灯が一本だけゆっくりと点滅を繰り返し、その光の中で鍵は鈍く光った。
(あと一回というのは、何のことだったか。)
思い出せないまま、彼女は硬貨を入れて洗濯機の蓋を閉めた。プラスチックの椅子に腰かけて、鍵を手の中に握ったまま機械が動き出すのを待った。
洗濯機が二サイクル目に切り替わったころ、ようやく思い出した。
十二か十三のころ、近所の公園の隅に古い木造の物置小屋があった。扉には南京錠がかかっていたが、彼女と幼なじみのふたりで合鍵を作り、よく忍び込んでは日が暮れるまで過ごした。何を話していたのかはもう覚えていない。鳥のこと、転校してきた子のこと、将来なりたいもののこと。記憶はぼんやりとしているのに、薄暗さとほこりのにおいだけははっきりとある。外が夕焼けになるのを壁のすき間から見ながら、もう少しだけ、と思ってまだそこにいた。そこがいちばん落ち着いた。
幼なじみの家族が遠くの街へ引っ越すことになったのは、中学に上がる前の夏だった。最後の夜、ふたりは物置小屋へ入った。懐中電灯を床に置き、その小さな光の輪の中で向かい合った。「あと一回だけ、また来よう」とふたりで言い合った。引っ越しが落ち着いたら幼なじみが遊びに来て、ふたりでまたここに来る。そのつもりだった。
でも彼女は、行かなかった。
夏が終わると、そのままにした。理由は特になかったと思う。ただ行かなかった。物置小屋はその冬に取り壊されたと、誰かから聞いた気がする。幼なじみからの年賀状は三年ほど届いて、それから途絶えた。
洗濯機が止まった。
彼女は立ち上がり、湿った衣類をひとつずつ乾燥機へ移した。最後にジャケットを手にとり、もう一度内ポケットを確かめてから、鍵をそっと戻した。それからジャケットをドラムに入れようとして、止まった。引き出して、膝の上に置いた。
なぜかはうまく言えない。ただ今夜、この生地を機械の熱で乾かしたくなかった。雨上がりのにおいが、まだ布のどこかに残っているような気がした。そのにおいが乾燥機の中で消えたら、何かが本当に終わる気がした。
乾燥機がゆっくりと回り始める音がした。ジャケットだけ、彼女の膝の上にある。
#掌編 #ショートショート #コインランドリー #深夜の話
深夜のコインランドリーで、陽子は上着のポケットに手を入れた。
出てきたのは鍵だった。
見覚えのない形をしていた。古い真鍮製で、先端がわずかに丸く削れている。いつから入っていたのだろう。三年前に古着屋で買ったコートだから、前の持ち主のものかもしれない。それとも自分の記憶が薄れているだけで、かつてどこかの鍵穴に差し込んだことがあるのかもしれない。思い返しても、何も浮かばなかった。
洗濯機の蓋を閉め、百円玉を二枚投入する。機械が動き始める低い振動が、足の裏から静かに伝わってきた。深夜のコインランドリーは音が違う。昼間と同じ機械音のはずなのに、周りの静けさが音の輪郭をくっきりさせる。窓の外では、ときどき車が通りすぎた。
店内にはもう一人だけいた。六十代とおぼしき男性が、窓際の折り畳み椅子に座って文庫本を読んでいる。乾燥機の温風に乗って、古い紙のにおいがかすかに漂ってきた。男性はページをめくるたびに少し眉を動かした。何か印象深い場面に差し掛かったのかもしれない、と陽子は根拠もなく思った。
陽子は鍵を手のひらに乗せたまま、ガラス越しに外を眺めた。雨上がりの路面が、街の遠い明かりを細長く引き伸ばして映している。赤信号のにじみが、風もないのにゆっくりと揺れていた。
「その鍵」
声がして振り向くと、男性がこちらを見ていた。文庫本は膝の上で閉じられている。眼鏡の奥の目が、陽子の手のひらに向いていた。
「なんでしょう」と陽子は言った。
「いえ」男性は静かに首を振った。「うちにあった鍵に似ていたもんで。ずいぶん昔の、ですが」
それだけだった。男性はゆっくりと本を開き、陽子も窓の外に目を戻した。機械の音が部屋をやわらかく満たしていた。
洗濯が終わるまでの三十分、陽子はずっとその鍵を握っていた。温もりがうつって、金属のひんやりとした感触が少しずつ消えていく。この重さが、どこか知らない場所に続いているとしたら、自分はその場所を知らないまま、何年も持ち歩いていたことになる。知らない扉のそばを、何度もすり抜けてきたのかもしれない。
帰り際、折り畳み椅子はすでに空になっていた。男性がいつ出て行ったのか、気づかなかった。乾燥機の丸い窓に、ぼんやりとした自分の顔が映っている。洗い立ての上着を羽織り、ポケットに鍵を戻したとき、また少しだけ冷たさが指先に触れた。
三年前、古着屋の棚でそのコートに手を伸ばした瞬間のことを思い出した。なぜかちょうどいい、と感じた理由を、当時はうまく言葉にできなかった。
それはこの鍵のせいだったのかもしれない、と陽子はぼんやりと思いながら、自動ドアの向こうへ出た。湿った夜の空気が、頬に触れた。
#掌編 #ショートショート #深夜 #記憶
深夜のコインランドリーに、彼女が入ったのは午前一時を少し回った頃だった。
白い蛍光灯が一本だけ細く点滅している。洗濯機の振動が古いリノリウムの床を通じて靴底に伝わってくる。窓の外は商店街の路地裏で、どの店もシャッターを下ろして静まりかえっていた。店の奥に置かれた自販機だけが、橙色のランプを灯していた。他に客はいない。ガラスのドアを開けたとき、雨上がりの匂いがすっと入ってきた。アスファルトと土が混ざったような、少し甘い匂いだった。
引っ越しの前夜だった。
段ボール箱はほとんど詰め終わって、明日の朝には業者が来る。テーブルも、本棚も、すでに解体してある。最後の洗濯物を乾かすまであの部屋に戻れない気がして、鍵だけ持って出てきた。財布も、本も、持たなかった。何を持って行けばよかったのか、出てきてから気がついた。
彼女は三番の洗濯機にコインを入れた。乾燥まで一時間ほどかかる。プラスチックの椅子に腰を下ろし、膝に手を置いて、機械の振動をただ感じていた。今夜何をしていたのか、ぼんやりと考えようとしたが、考えはすぐに霧の中へ消えていった。
そのとき、折りたたみ傘が目に入った。
窓際のパイプに引っ掛けてある。持ち手には赤いゴムが巻いてあった。ゴムが少し乾いて、細かい亀裂が入っていた。傘の生地も色褪せて、もともと何色だったのかわからないくらいだった。ずいぶん前から誰にも取られていない様子だった。
持ち主はもう来ないだろう、と彼女は思った。こういう場所に忘れ物をした人は、たいてい戻ってこない。忘れたことさえ忘れてしまうのだ。
何となく手を伸ばして傘を取り、開いてみた。すると布の裏側に、小さなジッパーのついたポケットがあった。そこから折りたたまれた紙が一枚、床に落ちた。
彼女はそれを拾い上げた。
雨が止んだら、南口のベンチで待ってる。
それだけ書いてあった。
日付はない。筆跡は几帳面で、少し右に傾いていた。ボールペンの跡は薄く、でも丁寧に押されている。急いで書いたものではない。じっくりと選んだ言葉を、静かな場所でひとつずつ書いた、そんな感じがした。誰かに届けるつもりで書いた言葉だ、と彼女は感じた。
約束の言葉なのか、誰かへの伝言なのか、彼女にはわからなかった。ただ、書いた人はそのあとちゃんと南口のベンチで待ったのだろう、と思った。この傘を忘れたまま、雨が止んだ夜に。夜風の中で、ベンチの木の冷たさを感じながら。待っていた相手が来たのか来なかったのかは、彼女には知る術がない。
洗濯機がブザーを鳴らした。
彼女は紙切れをそっと折り、ジャケットのポケットに入れた。傘はパイプに戻した。乾燥機にコインを入れ、また椅子に戻った。
窓の外では小雨が降り始めていた。窓ガラスに細かい粒が打ち付けている。自販機のランプがひとりでに橙色に灯り直した。
しばらくして、彼女は自分が傘を持っていないことに気がついた。もともと手ぶらで出てきたのだ。鍵だけ持って。段ボールの詰まった部屋から。
明日の朝、業者が来るまで、もうあの部屋には戻らなくていい気がした。何年住んでいたのか、正確には思い出せなかった。
乾燥機が低く回り続けている。雨は、まだ止みそうにない。
#掌編 #ショートショート #深夜の話 #引っ越し前夜