にんにくが油に触れた瞬間、キッチン全体がフッと弾けるような音がした。土曜の朝らしい、静かなはじまりだった。窓の外は曇っていて、世田谷の住宅街には人気がなかった。 商店街の角にある山田屋に寄ったのは九時...
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にんにくが油に触れた瞬間、キッチン全体がフッと弾けるような音がした。土曜の朝らしい、静かなはじまりだった。窓の外は曇っていて、世田谷の住宅街には人気がなかった。 商店街の角にある山田屋に寄ったのは九時...
油が跳ねる乾いた音がした瞬間、茄子の断面から白い蒸気が勢いよく立ちのぼった。台所の小窓を少し開けていても、甘くかすかに焦げた香りはすぐに部屋の隅まで広がる。九月に入って湿気が少し抜けてきたせいか、今日...
油の跳ねる音から、始まった。 今日は茄子を三本、世田谷の商店街の八百屋で買った。店頭に並ぶものはどれも艶があって、紫が深い。おじさんに声をかけたら「群馬の朝どりだよ、今が一番いい」と言ってくれた。一本...
蒸し暑さが戻ってきた夕方、フライパンに油を引いた瞬間に、ニンニクの薄切りがジュッと鳴った。その音だけで、体が少し前のめりになる。 今日の晩ごはんは、茄子とパプリカの南蛮漬け。材料は昼に三軒茶屋の八百屋...
ごま油が温まりはじめると、台所の空気がすこし甘くなる。夕方の六時、世田谷の一軒分だけの台所で、鉄のフライパンがじわりと熱を持ちはじめた。まだ茄子を切ってもいないのに、もう料理が始まった気がした。窓の外...
鍋の蓋を持ち上げた瞬間、湯気とともにほっこりした土の香りが台所全体に広がった。里芋だけが持つ、あの静かで奥深い匂い。からだがすうっと落ち着いて、今日一日の疲れが少しやわらいだ気がした。十一月に入ってから朝晩の冷え込みが急に増して、こういう夜は煮物に限ると自然に思うようになってきた。
今日の里芋は商店街の角にある八百屋「みどり」で求めてきたもの。埼玉の小川町産と書いた手書きの札が野菜箱の前に立っていて、一個一個がずんぐりとした丸い形をしていた。泥をまとったままの里芋が並ぶ様子は、いつ見ても野暮ったくて愛らしい。店のおばさんが「今年は形がよくてね、ほら丸くて、ちょうどいい大きさでしょ」と言いながら三つ四つ選んで袋に入れてくれた。受け取ったときの袋の重みがずしりとして、妙に安心した。旬の野菜は重い、ということを何度体で覚えてもまたつい忘れてしまう。帰り道、袋の中で里芋が揺れるたびに土の香りがかすかに漂ってきた。
下ごしらえはいつも通りの手順で進めた。皮を剥いて塩もみをし、十分ほど置いてぬめりを落としてからさっと流水で洗う。次に少量の水で下茹でして、一度浮いてきたぬめりと一緒にそのお湯を捨てる。祖母はこの手順を「里芋の機嫌をとる」と言っていた。福井の冬はぬめりがよく出るから、ちゃんと機嫌をとってやらないといけないのだと、子どものころに台所の隅から見ながら教えてもらった。その言葉の意味が大人になってようやくわかって、一人でくすっと笑ったことを今も覚えている。機嫌をとるとは、丁寧に手をかけるということなのだと。今日もその手順を省かなかったのは、たぶん祖母の言葉がまだ耳に残っているからだ。
今日の失敗は火加減だった。だし醤油と味醂を合わせて煮はじめてから、うっかり中火のまま目を離してしまった。五分ほどして鍋に戻ると、底のほうからかすかに焦げの匂いが漂いはじめていて、慌てて弱火に落とした。里芋の表面が少し濃い色に染まっていたが、箸を刺してみると中まできれいに火が通っていた。試しに一つ口に含むと、端のほうに薄く広がった香ばしさが、むしろ煮物全体の輪郭をはっきりさせていた。醤油の焦げがだしの中に溶け込んで、奥行きのある風味になっていた。失敗が失敗にならないこともある、とまた一つ覚えた。次はわざと同じ焦げをつけてみようか、などとも考えた。
口に入れたとき、まずもっちりとした重みがあった。奥歯で軽く押すとほろりと崩れて、里芋特有のとろりとしたぬめりが舌の上に広がる。その後からじわりと甘みが来て、喉を過ぎてからもしばらく続いた。甘みが消えたあとには、だしの静かな余韻だけが残った。砂糖は使わず、みりんだけで甘みをつけるのは祖母のやり方をそのまま引き継いでいる。「砂糖を足すとどこか急いだ感じになる」と祖母は言っていた。みりんの甘みはゆっくり広がって、後からついてくる。急がない味が、一人の食卓には似合う。秋が深まるごとに、からだが濃い味よりも素材そのままの甘みを求めるようになる気がする。
余った煮汁がたっぷり残ったので、明日の朝は絹ごし豆腐を足して温めなおすつもりだ。作り置きの楽しみの半分は、翌朝どう変わるかを想像することにある。煮物は一晩おくと味が落ちついて、だしが芯まで染みる。昨日の残り物が今日のごちそうになるのが、一人暮らしの小さな得だと思っている。
今夜の食卓は里芋の煮物と麦入りのご飯、きのこの味噌汁だけだった。窓の外に風の音がして、世田谷の夜が静かに更けていく。煮物の器を両手で包むと、まだほんのりとした温かさが残っていた。台所に小さな煮物の匂いが残っていて、明かりを消す前に深く息を吸った。
#家ごはん #旬の食材 #里芋 #台所メモ