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冒頭のワンシーン。早朝、まだ暗い東京の路地に、役所広司が現れる。アパートの扉を音を立てずに閉め、鍵をポケットに収め、玄関の植木鉢の葉に軽く触れてから出かける。自転車をこぎ、コンビニでコーヒーを買い、軽自動車の運転席に乗り込む。その十数分間、カメラは彼の顔をほとんど映さない。手元と、窓の外の光と、バックミラーに映る微細な表情だけが動く。ヴィム・ヴェンダース監督『PERFECT DAYS』(2023年)の開幕は、台詞がほぼなく、音楽もなく、ただその動作の質感だけで成立している。それ自体が、この映画の立ち位置を静かに宣言しているようだと、後から気づいた。
平山(役所広司)は渋谷区の公衆トイレ清掃員として働く。毎朝同じ時間に起き、同じルートを走り、仕事の合間に同じ神社の木漏れ日をポケットカメラに収める。その繰り返しを、映画は意味に変換しようとするのか、それとも意味を問うことへの懐疑そのものを描こうとするのか——観終えて数日経った今も、私には断言できない。そのどちらにも振り切らないあいまいさが、この作品の誠実さだと私には映る。
観たのは中野の小さなシネコンのレイトショーだった。スクリーンは大きくなく、座席も年季が入っていて、条件は整っていなかった。ただ35ミリフィルムで撮られた映像は、こういう古い空間の方が馴染む気がする。渋谷の公衆トイレの白いコンクリート壁、路面の水たまりが朝光を反射する瞬間——フィルムグレインがその光の散り方と重なって、デジタルプロジェクションでは生じない奥行きが生まれていた。不完全な上映環境が、逆にこの映画の体質に合っていたのかもしれない。中野で観たことに、後から妙な必然性を感じている。
音楽の設計について考えさせられた。Lou Reedの「Perfect Day」をはじめとする60〜70年代の楽曲がカーステレオから流れる。平山が自分で選んだカセットテープとして設定されているため、それらは「劇伴」ではなく「主人公の内面の表層」として機能する。その設計は誠実だと思う。音の質感も、カーステレオの再現として正確なのか、あるいは意図的に処理されているのか私には判断できないが、あの軽い歪みが映像の粒子感と合っていた。一方、後半の感情的な場面での選曲は、観客の解釈をやや誘導しすぎている気がした。余白を大切にしてきた映画が、そこだけ説明的になる。その落差には、商業的な要請との折り合いの痕跡のようなものが透けて見える。
字幕と台詞のあいだにある非対称さにも触れておきたい。これはドイツ人監督が、日本を舞台に、日本語で作った映画だ。本来的に「外国語としての日本」を経由している。日本語母語話者として観ると、役所広司の「はい」の語尾、「ありがとうございます」の息継ぎの位置、そういう細部に、自分の日常の語感が重なってしまう。ヴェンダースが切り取ったものと、私が聞いているものとのわずかなずれ——それは翻訳の失敗ではなく、異なる場所に立つ者が誠実に作ったときに生じる必然的な歪みだと感じる。その歪みを、欠点と呼ぶ気にはなれない。
この映画が試みていないことを言う。平山を救済しない。変化させない。成長させない。ただ、変わらない時間の中に、それでも失われないものがあることを見せようとしている。それが完全に成功しているかどうかは、観る人の時間の使い方によると思う。私はこの映画を観た翌朝、いつもより少し早く目が覚めた。朝の光が部屋に入ってくる瞬間をしばらく眺めていた。それが答えのひとつかもしれないと、今は思っている。
#映画日記 #批評メモ #中野 #日常と映画
夕方、窓の外がオレンジから灰色に変わっていく時間帯に、ヘッドフォンを着けて聴き始めた。坂本龍一の『12』(2023年)。十一曲目あたりで、ピアノの音が鳴り止んだあとの無音がいつもより長く続いている気がした瞬間があった。実際には同じ長さなのかもしれない。ただ、そのとき自分の呼吸がそこに合わさっていて、次の音が来るまでの数秒を、私もどこかで待っていた。それがこのアルバムを聴いているあいだ、最初から最後まで続く感覚だった。待つ音楽、というのが今の私の言葉だ。あるいはこのアルバム全体が、そういう時間の流れかたをしている。
この作品は、がん治療の合間に自身のスタジオで録音されたソロピアノ集だ。二十曲を超える収録で、総尺は七十分弱。坂本本人が「作曲というより採譜に近い」と述べていたと記憶しているが、その言葉は正確だと思う。日々鍵盤に触れて出てきた音をそのまま収めたような、構成の緩さがある。ミニマル・ミュージックの語彙は引き継ぎながら、グラスやライヒのような数学的な構造への執着はない。繰り返しとほのかな変容が主な手つきで、もっと体温に近い音楽だ。タイトルの「12」が何を指すかも、月の番号か日付のような、記録としての命名に聴こえる。
録音空間は、部屋の響きがそのまま収められている。ダンパーペダルを踏む微かな機械音、かすかな環境ノイズ、音が消えていくときの空気の質感。プロダクション側がこれらを「残す」選択をしたことで、演奏の身体性が自然に前に出てくる。スタジオ的な清潔さとは逆の方向を向いている。私はこの日、前夜に中野の小さなライブハウスで大音量のギターを二時間以上聴いていた。耳が少し飽和した状態で聴いていたせいか、この作品の隙間の多さがかえって落ち着いた。耳が満杯のとき、こういう透明感はちょうどいい。そういう条件でしか気づけないことが、ここには確かにある気がする。
作品が試みていること——感情を整理する前に音に変換すること、完成の判断を手放すこと——については、多くの曲で誠実に達成されていると思う。一方で、七十分という尺は正直に言えば長い。中盤のいくつかの曲は、「今日は思うように弾けなかった」という印象のまま収録されたように聴こえる箇所があって、それを未完成と呼ぶのか、記録の誠実さと呼ぶのかは聴き手に委ねられているのだろう。私には、数曲ほど散漫に映った。ただ、このアルバムはリスナーの満足を第一の目的として作られたものではないのかもしれない。そう思うと、散漫さへの批判は的外れになる。
それでも終盤の数曲は、別の水準にある。音の粒が揃わなくても、フレーズの輪郭が揺れていても、そこに何か静かな意志のようなものが聴こえる。それが演奏家の意志なのか、録音を選んだ編集者の判断なのか、あるいは聴き手が持ち込んだ物語なのかは、正直わからない。三つ全部のような気もする。いずれにせよ、音だけで成立している。
このアルバムについて書かれた文章の多くは、坂本の生涯と病をどうしても前景に置く。それは避けられないし、間違ってもいない。ただ私は、できるだけ音だけで聴こうとした。その上で言えるのは、静寂の扱い方が際立っているということだ。音符よりも、音符と音符のあいだの設計に、この人の個性が出ていた。沈黙を持たせる勇気、とでも言えばいいのか。それが聴くたびに、じわじわと印象に残る。また明日、続きを聴こうと思う。
#音楽日記 #坂本龍一 #ピアノ #批評メモ