坂本龍一の『async』(2017年)を、夜の十一時すぎ、ソニーのヘッドフォンで聴き直した。最初の一音は調律のずれたピアノの単音で、その揺れが決して安定しないまま次の音へと滲んでいく。何かが「始まる」...
坂本龍一の『async』(2017年)を、夜の十一時すぎ、ソニーのヘッドフォンで聴き直した。最初の一音は調律のずれたピアノの単音で、その揺れが決して安定しないまま次の音へと滲んでいく。何かが「始まる」...
土曜の昼過ぎ、遮光カーテンを半分だけ引いた部屋で聴いた。青葉市子の『Windswept Inna』(2023年)。最初の数小節、何が起きているのかよくわからなかった——ギターのアタックがない。音が「始...
土曜の昼すぎ、扇風機の首振りを止めてソファに横になっていた。聴くつもりで再生したわけではなく、ただ部屋に音を流しておこうという気分だった。Floating PointsとPharoah...
五曲目……いや、九曲目の "fullmoon" で、鍵盤が水面に石を落とすように単音を置き続ける箇所がある。音と音のあいだが長く、次の音が来るかどうかわからない、そのぎりぎりの沈黙の中にずっと耳を澄ま...
夜の八時すぎ、自室の照明を落とし、ヘッドフォンをつけて再生した。本来は夕方に近所のミニシアターへ行くつもりだったが、梅雨前線が引きずる重さが体に残っていて動けなかった。モニターの輝度を二段階下げ、部屋...
冒頭のワンシーン。早朝、まだ暗い東京の路地に、役所広司が現れる。アパートの扉を音を立てずに閉め、鍵をポケットに収め、玄関の植木鉢の葉に軽く触れてから出かける。自転車をこぎ、コンビニでコーヒーを買い、軽自動車の運転席に乗り込む。その十数分間、カメラは彼の顔をほとんど映さない。手元と、窓の外の光と、バックミラーに映る微細な表情だけが動く。ヴィム・ヴェンダース監督『PERFECT DAYS』(2023年)の開幕は、台詞がほぼなく、音楽もなく、ただその動作の質感だけで成立している。それ自体が、この映画の立ち位置を静かに宣言しているようだと、後から気づいた。
平山(役所広司)は渋谷区の公衆トイレ清掃員として働く。毎朝同じ時間に起き、同じルートを走り、仕事の合間に同じ神社の木漏れ日をポケットカメラに収める。その繰り返しを、映画は意味に変換しようとするのか、それとも意味を問うことへの懐疑そのものを描こうとするのか——観終えて数日経った今も、私には断言できない。そのどちらにも振り切らないあいまいさが、この作品の誠実さだと私には映る。
観たのは中野の小さなシネコンのレイトショーだった。スクリーンは大きくなく、座席も年季が入っていて、条件は整っていなかった。ただ35ミリフィルムで撮られた映像は、こういう古い空間の方が馴染む気がする。渋谷の公衆トイレの白いコンクリート壁、路面の水たまりが朝光を反射する瞬間——フィルムグレインがその光の散り方と重なって、デジタルプロジェクションでは生じない奥行きが生まれていた。不完全な上映環境が、逆にこの映画の体質に合っていたのかもしれない。中野で観たことに、後から妙な必然性を感じている。
音楽の設計について考えさせられた。Lou Reedの「Perfect Day」をはじめとする60〜70年代の楽曲がカーステレオから流れる。平山が自分で選んだカセットテープとして設定されているため、それらは「劇伴」ではなく「主人公の内面の表層」として機能する。その設計は誠実だと思う。音の質感も、カーステレオの再現として正確なのか、あるいは意図的に処理されているのか私には判断できないが、あの軽い歪みが映像の粒子感と合っていた。一方、後半の感情的な場面での選曲は、観客の解釈をやや誘導しすぎている気がした。余白を大切にしてきた映画が、そこだけ説明的になる。その落差には、商業的な要請との折り合いの痕跡のようなものが透けて見える。
字幕と台詞のあいだにある非対称さにも触れておきたい。これはドイツ人監督が、日本を舞台に、日本語で作った映画だ。本来的に「外国語としての日本」を経由している。日本語母語話者として観ると、役所広司の「はい」の語尾、「ありがとうございます」の息継ぎの位置、そういう細部に、自分の日常の語感が重なってしまう。ヴェンダースが切り取ったものと、私が聞いているものとのわずかなずれ——それは翻訳の失敗ではなく、異なる場所に立つ者が誠実に作ったときに生じる必然的な歪みだと感じる。その歪みを、欠点と呼ぶ気にはなれない。
この映画が試みていないことを言う。平山を救済しない。変化させない。成長させない。ただ、変わらない時間の中に、それでも失われないものがあることを見せようとしている。それが完全に成功しているかどうかは、観る人の時間の使い方によると思う。私はこの映画を観た翌朝、いつもより少し早く目が覚めた。朝の光が部屋に入ってくる瞬間をしばらく眺めていた。それが答えのひとつかもしれないと、今は思っている。
#映画日記 #批評メモ #中野 #日常と映画