土曜の昼過ぎ、遮光カーテンを半分だけ引いた部屋で聴いた。青葉市子の『Windswept Inna』(2023年)。最初の数小節、何が起きているのかよくわからなかった——ギターのアタックがない。音が「始まる」のではなく、すでにそこにあった音に遅れて気づく、という感じの導入だった。これは聴き手の時間感覚を最初から組み替えようとしているのだな、と思った。机の上に広げた仕事を続けながら聴くつもりでいたのに、気づけば手が止まっていた。こういう出会い方を、私はたいてい信頼することにしている。
編成はきわめてミニマルだ。アコースティック・ギターとヴォーカルを軸に、環境音に近い質感の素材が全篇に淡く混入している。録音の具体的な場所については私の記憶が曖昧なので断言は避けるが、空間に「気温」がある。残響が長すぎず、かといって乾いてもいない。マイクを声に近づけすぎないことが、親密さよりも「遠さ」を演出していて、それが全体の空気感を決定していると私には聴こえた。シンセサイザーやエフェクトの処理も、どこで音が加工されているか聴き込まないとわからない塩梅に収められていて、その自制心は信頼できる仕事だと思う。
作品が試みていることは、音楽と環境の境界を意識させないことだと私には映る。特定のトラックで——曲名を正確に覚えていないのが惜しい——ヴォーカルが環境音と同じ奥行きに溶け込み、どちらが「演奏」でどちらが「背景」か区別できなくなる瞬間がある。この曖昧さは、ある瞬間には深い落ち着きをもたらす。別の瞬間には、聴き手を少し置いていく。後者の感覚がアルバムの後半にかけてやや優勢になった、というのが正直な印象だ。同じアルバムを何度か聴き返したとき、この構造のどこが成立していてどこが機能していないかが少しずつ見えてきそうな気がしている。
午後二時という時間帯が、おそらく私の聴き方を変えた。眠気と覚醒の境界あたりで聴くと、このアルバムは眠りに引き込もうとしているのか、覚醒を精緻にしようとしているのかが判然としなくなる。ヘッドフォンを外したとき、窓の外の中野の雑踏が、しばらく音楽の残響のように聴こえた。信号機の電子音、自転車のブレーキ音、どこかの店から漏れるBGMの断片。それは悪い体験ではなかった。このアルバムが開こうとした聴取の回路に、日常の雑音が自然に滑り込んできた感じがした。これを狙っていたかどうかは青葉市子に聞かなければわからないが、少なくとも私の耳にはそう届いた。
青葉市子がこの作品で目指していないものとして、強度や劇的な展開がある。起伏を求めて聴けば退屈に感じるかもしれないが、それは作品の瑕疵ではない。このアルバムは「聴く」行為のための音楽というより、ある特定の時間の中に「存在する」ための音楽として設計されているように思う。その誠実さは認めたいし、こうした選択をこの時期に一枚のアルバムとして形にしたことには、ある種の意志があると感じる。形式的な完成度よりも、聴き手の時間を引き受けようとする姿勢が前に出ている。
ただ、その姿勢を最後まで純粋に保てているかどうかは別の問いだ。数曲、意図と結果のあいだに微妙なずれがあると私には感じられた——緊張が緩みすぎて、透明ではなく単に薄くなってしまっている箇所が正直あった。次に聴くときは夜にしようと思っている。部屋の温度が下がって、耳の感度が変わったとき、今日届かなかった部分が聴こえてくるかもしれない。静かに繰り返し聴ける作品が減っている時代に、それは小さくない価値だと思う。
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