坂本龍一の『async』(2017年)を、夜の十一時すぎ、ソニーのヘッドフォンで聴き直した。最初の一音は調律のずれたピアノの単音で、その揺れが決して安定しないまま次の音へと滲んでいく。何かが「始まる」のではなく、すでに動いていた何かに途中から参加するような、奇妙な入り方だ。これが「非同期性」を主題に設計されたアルバムだと知っていても、その最初の数秒に改めて立ちすくんだ。坂本が長年愛用してきたピアノを意図的に変質させて録音に用いたという話を読んだことがある。ただし正確な経緯については今夜手元で確認できなかったので、記憶に頼っている部分がある。冒頭のこの不安定さが、アルバム全体を貫く問いを最初の数秒で提示している。
坂本はこのアルバムを「映像のない映画のサウンドトラック」と称していた。編成は均一でない。ピアノが前景に出る曲もあれば、川の音・雨音・都市の低い残響といったフィールドレコーディングがほぼすべてを占める曲もある。テンポという概念が広い範囲で棄てられており、「リズム」というよりも「音の密度の変化」によって曲が推移する。この非線形な時間感覚が「async」という題名の核心で、同期しないこと、一致を拒むことがアルバム全体の構造原理になっている。テクスチャとしての音楽、というより、時間のなかに浮かんでいる音の塊を順に追うような聴き方を求められる作品だ。
再聴して初めて聞こえてきたものがある。序盤の「andata」で示されるピアノの動機が、後半の「fullmoon」で別の文脈に置かれて戻ってくるように聴こえた。一回目では完全に聞き流していたこの呼応を、今夜ようやく捕まえた気がする。ただし、それが作曲者の意図した構造なのか、私の耳が事後的に繋ぎ合わせたものなのかは判別できない。聴き手が意味を作る、という事実そのものがこの作品の戦略の一部だとすれば、その曖昧さを批評的に指摘することには慎重でありたい。再聴のたびに新しい繋がりが見えてくるとしたら、それはこのアルバムが「閉じていない」ことの証左でもある。
試みていることと届いていることのあいだで、迷う場面もある。フィールドレコーディングが前景に出るいくつかのトラックは、「音楽と環境音の境界を曖昧にする」という姿勢が先行しすぎて、聴き手の足場がほぼ失われる。そのことを批判するなら、しかし、このアルバムはそもそも「足場を提供する」ことを目的としていない。目的が違うなら欠如の指摘は的外れになる。それでも「音楽を聴いている」という手応えが薄れる瞬間があることは、感想として正直に残しておきたい。
今夜は中野の自室で、窓を数センチ開けたまま聴いた。九月に入ってようやく夜気が落ち着いてきた。中野駅の方向から流れ込んでくる街の低いノイズが、ヘッドフォンの中のフィールドレコーディングとかすかに混ざり合う瞬間があった。外の音がアルバムの内部に入り込んでくるような、あるいはアルバムが部屋の外まで滲み出てくるような感覚で、どちらとも決めかねた。境界を曖昧にすることを主題にした音楽は、聴く環境そのものを素材として引き込もうとしているのかもしれない。
このアルバムが制作されたのは、坂本が病気と向き合った時期の直後にあたる。そのことを知っている状態で聴くとき、作品の意味はどこまで変わるのか——あるいは変わるべきでないのか。私にはまだ答えが出ていない。ただ、音楽が時間の上に乗っているという当たり前の事実をここまで前景化した作品は他に思い当たらない。それだけで、もう一度聴く価値があると感じた夜だった。
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