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今日、閉架から引き出してきた一束の書簡の中に、文化年間と思われる紙片が混じっていた。本来の整理番号とは別の箱に入っていたので、前任者が何らかの理由で分けて保管したのか、それとも単純な誤配置なのか、今のところ分からない。紙の風合いと墨の色からは十九世紀前半と推測されるが、確証はない。
書簡の内容は商用の依頼状らしく、伏見の油商と思われる人物から、木津の問屋に宛てたものだった。大半は読み取れたが、差出人の名前の最後の一文字が滲んでいて判読できない。「藤兵衛」か「藤平衛」か。どちらでもある程度の検索は試みたが、この時期の伏見の油商を網羅した台帳が手元にないため、同定には至らなかった。来週、別の資料と突き合わせてみるつもりでいる。
目を引いたのは、本文の余白に鉛筆で書き込まれた小さな数字だった——「二十四文」と「三十六文」という二つの金額、そして「むり」という三文字。誰がいつ書いたのかは分からない。この書簡を読んだ後世の誰かが値段を書き留めたのか、あるいは同時代の別人が査定のようなことをしたのか。「むり」の主語も不明だ。値段が無理なのか、依頼そのものが無理なのか、あるいは全く別のことを指しているのか。
「むり」
たった三文字が、こちらの想像だけを広げる。文化期の物価に詳しくないので何とも言えないが、二十四文というのは蕎麦一杯ほどだったという話を読んだことがある——ただし、これは江戸の相場の話で、京都や伏見にそのまま当てはまるかどうかは(仮)としておく。三十六文との差が何を意味するのかも分からない。分からないことの方が、圧倒的に多い。
昼休みに鴨川へ出た。九月の中旬にしては蒸し暑く、ベンチの木が日差しで温まっていた。鉛筆でノートに「むり」と書いてみたが、自分で書くと全く違う感触がある。誰かが書いた文字を読むのと、書く動作を追体験するのとは、やはり別のことだ。歴史から何かを学ぼうとは思わないけれど、「むり」と書いた人の手の重さのようなものは、少しだけ想像できる気がした。
#古文書 #京都 #歴史日記 #図書館員
今日は閉架の整理作業で、享保期(1716〜1736年頃)の商家の帳簿を一冊、手に取った。タイトルも奥書もない薄い楮紙の束で、表紙には「万覚書」とだけある。虫食いが表紙右下に集中しており、修復処理の見積もりのために状態確認を頼まれたものだ。白手袋をはめて、ひとページずつ丁寧にめくっていった。
帳簿の中身は米の売買と掛売りの記録が大半で、数字と人名の羅列が続く。三条あたりの問屋との取引らしき記述もあるが、地名の表記が現在の地名と微妙にずれており、どの辺りを指しているのかは正確に特定できていない(推測の段階にとどまる)。そして十七丁目ほどめくったところで、本文とは明らかに異なる筆跡で余白に小さく書かれた文字を見つけた。
たね五歳
それだけだ。前後に文脈はない。
誰が書いたのか、たねとは何者なのか、分かっていることはほとんどない。帳簿本文の記載年から推測するに(仮)、享保十年前後の話かもしれない。商家の子なのか、奉公人の子なのか、それすら判断できない。ただその筆跡は本文よりも筆圧が弱く、字の大きさも一定せず、成熟した書き手のものとは少し違う印象を受けた。もちろんこれは印象であって確証ではない。
昼休みに鴨川の土手へ出た。九月末にしてはまだ蒸し暑く、川面から吹いてくる風だけがわずかに涼しかった。鉛筆でノートに「たね五歳」と書いてみて、それからしばらく水面を眺めた。五歳という年齢を誰かが書き留める場面をいくつか想像してみたが、どれも確かめようがない。
享保期の京都は疫病と火事の多い時代だった。麻疹や痘瘡の流行は複数の寺社日記や町年寄文書に記録されている。ただ、特定の商家の余白にある「たね」という名が、そうした記録と結びつくかどうかは今の段階では調べていない。調べたとしても、おそらく出てこないだろう。名もなき五歳が長く生きたのか、そうでなかったのか、私には知るすべがない。
午後に戻り、修復担当の同僚へ写真データを送った。余白の書き込みについては「本文と異なる筆跡による付記あり、性質不明(私的メモか記録上の付記か判断困難)」と資料記述欄に書き添えた。それが資料としての正確な処理だと思う。
棚に戻す前に、もう一度だけそのページを開いた。帳簿の数字の列のあいだで、たねという文字は変わらずそこにあった。今日の私に見えた、それだけが事実だ。
#古文書 #京都 #歴史日記 #図書館員
今日、閉架書庫で文政九年(一八二六年)九月の商家日記を整理していた。西陣の織物問屋のものらしく、帳面は和紙を袋綴じにした形式で、表紙の角が擦り切れている。修復処置の記録を確認しながら九月分のページを丁寧に開いていくと、二十三日の記述の横——本文の余白——に別の筆跡で「此日雨」とだけ書き添えてあるのを見つけた。インクの色が本文より明らかに薄く、筆圧も軽い。後から誰かが補記したものだろう。誰が、いつ、なぜそこに書いたのかは分からない。分からない、ということだけがはっきりしている。
この日記の本文を書いたのは当主の妻だと推測している。ただし根拠は、筆跡の柔らかさと記述の視点が台所と奉公人の管理に偏っていることだけで、確認する手段は今のところない。書きぶりは几帳面で、支出の一件ずつに理由を添える習慣があった。「油代 十二文、夜の灯りのため」「豆腐代 八文、旦那の朝食ゆえ」といった具合だ。文政九年の九月というと、京都一帯で水害が相次いだ年にあたる——これは同時期の寺社由緒書と町奉行への届書で確認した事実であり、この商家日記との直接の照合はまだ行っていない。「此日雨」という余白の書き込みが、その水害と関係するのか、それとも単なる天候メモなのか、今の段階では判断できない。
気になったのは、「小豆かゆ代 六文」という記述が九月に三度現れることだ。秋の彼岸を挟んだ時期に集中している。六文という値段は、享保期の大坂の物価史料と比べるとかなり安い——ただしこれは仮の比較であり、地域差も物価変動も精査していない。そもそも小豆粥が誰のためのものだったのかも分からない。日記の中に「小さき者のため」という一句があるが、これが幼い子を指すのか、病人を指すのか、それとも奉公人の中の若い者を指すのか、文脈だけでは読めない。子どもがいたとしたら、その子の名前はどこにも出てこない。
昼休みに鴨川のベンチへ出た。九月の末というのに今年は日差しが強く、川面が白く光って目を細めた。手帳を開いたが鉛筆を走らせる気になれず、しばらくぼんやり川を眺めた。文政九年の九月二十三日もこのくらい暑かっただろうかと、意味もなく考えた。しかしすぐに「此日雨」を思い出した。雨が降っていたなら、少なくともその日は暑くなかったはずだ。大した発見でもないのに、余白の四文字のせいで目の前の川の光が少し違って見えた気がした。正直なところ、そういう気がしただけで、根拠はない。
書庫に戻り、帳面の奥付近くを見ていると、本文とは別の手で「御奉納」という文字が一か所に押されていた。いつ、何のためにそこへ入ったのかは調べが必要だ。災害や疫病の後に家財が整理されるなかで、商家の日記が寺社の蔵へ流れ込む例は別の件で確認したことがある(この日記に当てはまるかどうかは仮)。帳面の来歴を追うことも、今後の課題として手帳にメモした。
余白の書き込みを史料として使うのは難しい。書いた人物不明、書かれた時期不明、動機も不明。筆跡鑑定をするだけの予算も時間もない。ただ「此日雨」という四文字が紙の上に残ったという事実だけは動かせない。その日、誰かが雨を書き留めようとした。商家の帳面の余白を見つけ、墨を含ませた筆をそこへ置いた。それ以上のことは分からないまま、今日の整理を終えた。書庫の中は温度も湿度も一定に保たれていて、外が晴れているのか雨なのか、中にいる限りは分からない。今日の外は晴れていた。
#古文書 #京都 #歴史日記 #図書館員