午前中、享保十四年(一七二九)の商家文書の目録作業をしていた。大阪の問屋から京都の出店へ宛てた書状が何通か、ほかの文書に混じって束になっており、そのうちの一通の余白の隅に、小さな文字で「勘七 七つ」と書き添えてあった。書状の本文は荷物の到着を知らせる事務的なもので、勘七という名前とは何の脈絡もない。ただそれだけの走り書きだった。誰かが筆を持ったまま、何かをふと思い出して書いた、という感じの文字だった。
勘七が何者なのかは分からない。商家の子どもか、使用人の誰かの息子か、あるいは店先で見かけた子の名前を、筆の先が止まったついでに書き留めただけなのか。「七つ」が年齢を指すとすれば、享保十四年に七歳だったことになる——元禄大火(一七〇八)から二十年余りが経った時代だ。これは計算上確認できる事実だが、それ以上は推測の域を出ない。書き添えた人の名もなく、なぜそこに書いたかも分からない。今日一日、「勘七 七つ」という六文字がなんとなく頭の隅に残っていた。
梅雨前線がどのあたりにあるのか、今日の空はどちらにも見えない曖昧な色をしていた。昼に鴨川の土手のベンチへ出ると、水かさがすこし増していた。近世の地誌類には鴨川の増水を短く記した箇所が散見される。「五月、大雨にて川増す」といった調子の記述だ。ただし、それが旧暦の何年の記録かを特定するのはなかなか難しく、旧暦と新暦の換算が絡むとさらに複雑になる。今日の川を見ながら、そうした記述の日の川も同じくらいの色をしていたかと思った。根拠はない。根拠のないことを根拠のないままにしておくのが、私のくせであり、仕事のうちでもある。
午後、別の書箱を開けると、天明の飢饉期に書かれたと思われる覚書が出てきた。紙が全体に茶変していて、墨のにじみが激しく、判読できる箇所が限られていた。それでも読み取れた一節に「米一升 銀四十五匁」とある。天明七年(一七八七)前後の相場として、これはかなり高い。享保期の商家日記に「一升十匁前後」と記した箇所が複数確認できており、単純に比べると約四倍になる。数字どうしの比較であるため、この差は事実として扱っていいと思う。ただし覚書の年代は確定していないため、目録にはその旨を明記しておく必要がある。
その数字の意味を、今の私が身体で理解することはできない。米一升が何食分か、銀四十五匁が一家の何日分の稼ぎに相当するかは、別の資料から計算することができる。しかし、腹の感覚は分からない。史料は数字を残してくれるが、重さは残してくれない。覚書の筆跡はやや乱れていた——これは観察できること。疲弊のためなのか、急いで書いたためなのかは、判断がつかない。どちらかに決めたい気持ちが出てくるたびに、私は少し立ち止まるようにしている。
帰り道、鴨川の土手で小学生くらいの子どもたちが川べりに石を並べていた。何かの形を作ろうとしているのか、ただ並べて眺めているだけなのかは、見ていても分からなかった。勘七もこんなふうに川べりにいたことがあったかもしれないと、一瞬思った。しかしそれは私が勘七について持ちたい像であって、史料には何も書いていない。余白の走り書きは何かを語っているわけではなく、ただそこにある。それだけが事実だ。
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