今日、享保十七年(一七三二年)と記された商家の日記を点検していた。棚の奥から出てきたもので、昭和初期に寄贈されたらしいが、整理カードが不完全で詳しい来歴は不明だ(仮)。表紙には屋号もなく、ただ「日々覚」と墨書されているだけ。罫線のない和紙に細い筆でびっしり書き込まれており、インクは薄茶色に褪せている。虫損はほぼなく、保存状態はまずまずだ。手袋越しに感じるわずかな凹凸が、筆圧の強弱を伝えてくる。今日はこの一冊を、午後のほとんどかけて読んだ。
七月の欄を開いたとき、ある日付が二度記されているのに気づいた。最初の記述は薄く塗りつぶされており、その上に別の筆跡で書き直されている。消されたのは「十四日」、書き直されたのは「十三日」だ。一日のずれ。単純な書き間違いかもしれないし、そうでないかもしれない。今のところ判断できない。
その十三日の欄にはこう書いてある。
おたき 夕方使いに出す 夕刻戻る 特に事なし
「おたき」が何者かは、日記のどこにも説明されていない。女性の名前らしいが、家族なのか奉公人なのか、年齢も出自も分からない。この日記には使いに出された人物の名が他にも散らばっていて、「太助」「こはる」「仁兵衛」といった名が断片的に現れる。誰ひとり、素性が書かれていない。記録した人間にとっては、書くまでもない自明のことだったのだろう。日記というのはいつも、書き手がすでに知っていることは書かない。残るのはいつも、省略の輪郭だけだ。
享保十七年の夏は、いわゆる享保の大飢饉の年にあたる。西日本を中心に深刻な凶作があり、京都でも米価が高騰したとされる(享保期の町方文書複数に記録あり)。この日記にも、七月以降の米の値段が少しずつ上がっていく様子が書かれている。六月には一升あたり「銀四匁余」とあったのが、八月末には「銀七匁近く」に達している。およそ一・七倍だ。しかし文体は終始淡々としており、「飢饉」という言葉も「難儀」という言葉も一度も出てこない。天候への嘆きもない。当事者には実感が乏しかったのか、書くことを避けたのか、それとも後世が「大飢饉」と名付けたできごとが、当時の京の商家にはまた別の手触りをしていたのか。推測の域を出ない。
今日は五月十三日。享保十七年の七月十三日とは、季節も状況も何もかも違う。それでも同じ「十三日」という数字が目に入ったとき、一瞬だけ引っかかった。自分でも馬鹿らしいとは思う。偶然の一致に意味を見出したくなるのは、史料を扱う人間の悪癖だと分かってはいても。三百年近い時差があるのだから。
鴨川のベンチで昼食を取りながら、「おたき」のことを考えた。七月の京都だから暑かったはずだが、その日が特に暑かったかどうかは分からない。当時の気温記録を持つ史料にはまだ当たっていない。分かっているのは、誰かが夕方に出かけて夕刻に戻り、特に事がなかったということ、そしてその日付が後から一日ずれて書き直されたこと、それだけだ。何かが起きたかもしれないし、何も起きていないかもしれない。川沿いでは今日も鷺が一羽、水際で動かずに立っていた。
修復室に戻ってから、訂正箇所を接写した。消し方は丁寧で、削り取りではなく薄く塗りつぶされている。同じ人物が後から気づいて直したのか、別の誰かが書き加えたのかは、筆跡の精密な分析が必要で、今の私には判断できない。とりあえず画像として記録し、調査ノートの引継ぎ欄に一行書き添えた。「七月十三日の日付訂正、理由不明、要精査」。それが今日できることの全部だった。おたきのことは、明日も考えるかもしれない。
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