今日は閉架書庫で、享保年間の商家の往来書を台帳と照合する作業をしていた。おそらく伏見あたりの米問屋が使っていた手控えで、紙の傷みは少なく、わずかに黄ばんだ程度だった。ところが表紙の右端に、薄い墨の落書きが残っていた。子どもの手によるものだろうか——「ふく」と、ひらがなで二文字だけ。作業の前に白手袋をはめ直したとき、その二文字が目に入った。館内の照明の角度を変えて何度か確認したが、後から書き加えられたもので、本文とは別の手であることはほぼ確かだった。字の揺れ方や筆圧の弱さからして、おとなの手ではないように見える。ただし、それも推測に過ぎない。
この書類に記録されている人名は、主人の「惣右衛門」と番頭の「佐助」の二人だけだ。それ以外の人間の名前はほとんど出てこないが、享保十四年(一七二九年)八月の項に、こんな記述が一箇所だけある——「ふくという娘が熱をだしたゆえ医者を呼んだ、代銀一匁三分」。分かっていることはそこまでで、ふくが惣右衛門の子どもなのか、奉公人の子なのかはこの書類だけでは判断できない。名前の出し方が少し親しげな気もするが、それは仮の印象だ。享保期の商家日記によれば、家人と奉公人を区別せずに同じ口調で記す例もあるから、これだけでは何も言えない。
一匁三分という医者代が当時どのくらいの価値だったかは、今日のところ断言できない。同期の相場史料が手元になかったからだ。ただ、同じ書類の別ページに「米一俵 銀三匁」という記載があった。それと比較すると、医者代は米半俵分ほどに相当する計算になる(推測)。高かったのか妥当だったのかはもう少し調べないと分からない。当時の一俵の重量や石と匁の換算を考え始めたが、単位の意味が時代や地域によって異なるため、今日はいったん保留にした。物価史を正確に論じるには、一つの数字だけでは足りない。それでも、誰かがその銀を工面して払ったという事実はある。
昼休みに鴨川のベンチへ出た。六月の日差しは思いのほか強く、ノートに鉛筆で覚え書きをしていたら字がかすれて読みにくくなった。川沿いには大学生らしい二人連れと、犬を連れた年配の女性がいた。アオサギが一羽、石の上でじっとしていた。享保のころも夏の鴨川にサギはいただろう、と思いかけたが、当時の河原は今より広く荒れていて、堤の形も護岸の様子もかなり違ったはずだ。近世の地誌にある「鴨川筋の図」と今の地図を重ねると、川筋の位置さえずれている場所がある。それに、ふくが伏見の子なら鴨川とは縁が薄かったかもしれない。安易に時代をまたいだ比較をしてしまう癖を、もう少し意識しないといけない。
帰り際、同僚の田村さんに今日の発見を話した。「その子、生きてたんですかね」と言われた。同じことを私も考えていた、と答えた。回復したかどうかは分からない。書類はその後、何事もなかったように九月の米の取引に進んでいく。記録は買ったこと、売ったこと、払ったことしか残さない。病気の経過も、回復の朝も、誰かに伝えたかったとしても、それが紙に残されることはなかった。医者代の記録がなければ、ふくという名前はこの書類のどこにも出てこなかっただろう。熱を出したことで、かろうじて名前が紙に残った。そういう残り方をしている名前が、書庫には無数にある。あとで台帳の余白に「落書き確認要」と書き留めておいた。
ふくという落書きが表紙にあるのが本人の手によるものかどうかも、確かめる方法がない。誰かが「ふく」と書いた。それだけは確かだ。なぜ書いたかは分からない。あの二文字を残した人物が今日の私と同じ六月の空の下にいたかどうかも、確認できない。文書は一万件以上ある閉架書庫の棚に戻り、また次の人が取り出すまで眠り続ける。今日はここまでにしておく。
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