夜の図書館で残業していると、三階の古い書庫から足音が聞こえてくる。
私は司書として、この図書館に五年勤めている。週末の夜勤が回ってくるのは月に二度ほどだ。静かな館内で書籍の整理や修繕をするのは嫌いではない。誰もいない空間には独特の落ち着きがある。
しかし、今夜は何かが違う。
三階の書庫は立入禁止になっている。 建物の老朽化が進み、床が抜ける危険があるからだ。鍵もかかっているはずなのに、確かに足音が聞こえる。
カツン、カツン、と規則正しい靴音。
最初は気のせいだと思った。古い建物は時々、不思議な音を立てる。でも、その足音は止まらない。むしろ、だんだんと近づいてくるような気がする。
私は二階のカウンターに座って、天井を見上げた。
足音は真上を通り過ぎていく。そして、止まった。
しばらく静寂が続いた後、きしきしと床が軋む音がした。まるで、誰かがその場でゆっくりと体重を移動させているような。
「……誰ですか?」
声を出してから、愚かだったと思った。本当に誰かがいるなら、不法侵入者だ。警察を呼ぶべきだった。
でも、返事はない。
代わりに、階段を降りてくる足音が聞こえた。
カツン、カツン。
私は椅子から立ち上がり、階段の方を見た。二階と三階を結ぶ階段は視界に入る。誰も降りてきていない。
それなのに、足音は確実に近づいている。
カツン、カツン、カツン。
私は息を止めて、じっと聞いた。足音は二階に到達した。そして、私の方へ向かってくる。
カウンターの前で、足音は止まった。
私の目の前に誰もいない。
ただ、空気が冷たくなった。冬だから、と思おうとしたが、この冷たさは違う。まるで、誰かの視線を浴びているような、背中がざわざわする感覚。
そして、私は気づいた。
カウンターの向こう側、返却本を置く棚に、濡れた足跡がついている。
裸足の、小さな足跡だった。
水溜まりから伸びているわけではない。突然そこに現れて、カウンターの方へ続いている。私の目の前まで。
そして、足跡は私の椅子の後ろで終わっていた。
その瞬間、背後で水の滴る音がした。
ぽた、ぽた、ぽた。
私は振り返れなかった。ただ、椅子に座ったまま、震えていた。
背後に、誰かが立っている。
濡れた髪から水が滴る音だけが、静かな館内に響いていた。
そして、耳元で小さな声が囁いた。
「……本、返しに来たんです」
私が管理する返却記録に、五十年前から返されていない本が一冊ある。借りた人の名前は、田中ユキ。備考欄には、小さく「水難事故死」と書かれていた。
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