影が、遅れている。 山田京子がそれに気づいたのは、十月の末、残業を終えて帰る夕暮れどきのことだった。オフィスビルの前の歩道を歩いていると、街灯がぽつりぽつりと灯り始めた。秋の夜は早い。午後五時を過ぎる...
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影が、遅れている。 山田京子がそれに気づいたのは、十月の末、残業を終えて帰る夕暮れどきのことだった。オフィスビルの前の歩道を歩いていると、街灯がぽつりぽつりと灯り始めた。秋の夜は早い。午後五時を過ぎる...
深夜の帰り道で、佐々木みゆきが自分の足音の異変に気づいたのは、十一月の初旬のことだった。 地下鉄の最終電車を降りると、外気はひどく冷えていた。吐く息が白く流れる。駅からマンションまで、徒歩で十分ほどの...
放課後の教室は、静寂がまるで固体のように積み重なっている。 田中由樹が数学の補習を終えたのは、夜の七時を回ったころだった。窓の外はすでに完全に暗くなっていて、廊下の蛍光灯もいくつか落ちていた。足元に影...
あの夜、取材に行くべきではなかった。 友人の紹介で連絡してきた女性は、「絶対に本物の話です」と繰り返した。場所は閉校になって三年が経つ廃小学校。話の内容は、「音楽室の鏡」についてだった。 彼女の話によ...
夜の十一時を過ぎた頃、私は駅のホームに一人立っていた。 終電まであと十分。蛍光灯がひとつ、ゆっくりと明滅していた。 反対側のホームに、女が立っていた。
親戚の家で一週間、留守番を頼まれた中林明子が、庭の井戸に気づいたのは到着した夜のことだった。
古い一軒家だった。最寄り駅から二十分ほど歩いた住宅街の、さらに奥まった場所にある。周囲の家々はどれも建て替えられているのに、その家だけが昔の姿のまま残っていた。縁側から見える庭には、使われなくなった井戸が一つ、ひっそりと佇んでいた。蓋は重い石で塞がれていて、表面には緑の苔がびっしりと生えていた。雨の日には苔が黒みを帯びて、濡れた生き物の皮膚のように見えた。庭の隅で、静かに呼吸しているようだった。
出発前に伯母から言われたのは、ただひとつのことだった。
「井戸だけは、覗かないでね」
理由は教えてもらえなかった。聞いても「昔からそういうことになってるの」とだけ言って、それ以上は話してくれなかった。子どものころから不思議なことを言う人だったから、明子は深く追及しなかった。
最初の二日間は、何も起こらなかった。夜は早く暗くなった。街灯もなく、庭は漆黒に沈む。眠れない夜に縁側から庭を眺めていると、井戸の輪郭だけが、うっすらと月光に浮かんでいた。いつの間にか、何度もその方向に目が向いていた。
三日目の夜、雨が降り始めた。縁側に腰を下ろし、庭に落ちる雨音を聞いていた。風もなく、静かな夜だった。雨が強くなってきたころ、井戸の蓋が少しだけ動いたように見えた。錯覚だろうと部屋に戻った。眠れたかどうか、よく覚えていない。夜中に一度、庭から音がした。水の流れる音だったか、それとも風だったか。
四日目の朝、明子は目が覚めると縁側の外に立っていた。
裸足で、足が濡れていた。夢遊病など、これまで一度もなかった。庭の砂利に、自分の足跡がついていた。それは一直線に、井戸のすぐそばまで続いていた。戻ってくる足跡はなかった。昨夜の自分が何を見ようとしていたのか、明子には分からなかった。
井戸の蓋は、前日より少し右にずれていた。
その日の昼、明子は確かめずにはいられなかった。石の端に手をかけ、少しずつ動かした。暗い穴が口を開く。冷たい空気が漂ってくる。恐る恐る顔を近づけ、下を覗き込む。目が慣れるまで少し時間がかかった。暗い筒が底に向かって続いているだけに見えた。しかしやがて、暗闇の奥に、光を反射するものがあった。
水面は、ずっと下にあった。静かに揺れていた。
自分の顔が映っていた。
そこまでは、まだよかった。
おかしいのは、水面の中の明子が、こちらを見ていなかったことだ。
上を向いていない。横を向いて、どこか遠くを見ていた。じっと、何かを見定めるように。
急いで蓋を戻した。震える手で石を押した。石は重く、指先が痛くなった。夕方になって、ようやく伯母に電話した。
「覗いちゃったの」
と彼女は言った。ため息の代わりに、長い沈黙があった。受話器の向こうで、風の音がした。
「何も見なかったことにして、早く帰っておいで」
電話を切った後、明子はしばらく受話器を握ったまま、動けなかった。
翌朝、明子は荷物をまとめてタクシーを呼んだ。玄関を出るとき、庭のほうに目をやった。
見なければよかった。
井戸の蓋が、また少しずれていた。そして縁側に、足跡があった。
裸足の、小さな足跡が。
明子のものより、一回り小さかった。濡れた跡が、玄関の前まで続いていた。その先は、家の中へと向かっていた。タクシーが来た。明子は振り返らずに乗り込んだ。
#怪談 #ホラー #井戸 #恐怖