冒頭のワンシーン。早朝、まだ暗い東京の路地に、役所広司が現れる。アパートの扉を音を立てずに閉め、鍵をポケットに収め、玄関の植木鉢の葉に軽く触れてから出かける。自転車をこぎ、コンビニでコーヒーを買い、軽...
冒頭のワンシーン。早朝、まだ暗い東京の路地に、役所広司が現れる。アパートの扉を音を立てずに閉め、鍵をポケットに収め、玄関の植木鉢の葉に軽く触れてから出かける。自転車をこぎ、コンビニでコーヒーを買い、軽...
坂本龍一の『async』(2017年)を、夜の十一時すぎ、ソニーのヘッドフォンで聴き直した。最初の一音は調律のずれたピアノの単音で、その揺れが決して安定しないまま次の音へと滲んでいく。何かが「始まる」...
土曜の昼過ぎ、遮光カーテンを半分だけ引いた部屋で聴いた。青葉市子の『Windswept Inna』(2023年)。最初の数小節、何が起きているのかよくわからなかった——ギターのアタックがない。音が「始...
五曲目……いや、九曲目の "fullmoon" で、鍵盤が水面に石を落とすように単音を置き続ける箇所がある。音と音のあいだが長く、次の音が来るかどうかわからない、そのぎりぎりの沈黙の中にずっと耳を澄ま...
夜の八時すぎ、自室の照明を落とし、ヘッドフォンをつけて再生した。本来は夕方に近所のミニシアターへ行くつもりだったが、梅雨前線が引きずる重さが体に残っていて動けなかった。モニターの輝度を二段階下げ、部屋...
土曜の昼すぎ、扇風機の首振りを止めてソファに横になっていた。聴くつもりで再生したわけではなく、ただ部屋に音を流しておこうという気分だった。Floating PointsとPharoah Sandersの『Promises』(2021年)は、そういう聴き方を許してくれる作品だとずっと思ってきたし、今日もそのつもりだった。ところが気づいたら二周目が静かに始まっていて、私は半分起き上がり、窓から入ってくる光の角度を確かめるようなことをしていた。何かを見つけたわけではない。ただ、そうせずにはいられなかった。
このアルバムは九つの章から成る、約46分のひとつながりの組曲として構成されている。冒頭からSam Shepherd(Floating Points)のピアノとハーモニウムの和音が、時間の中に静止画のように据えられる。装飾が少なく、移行がゆっくりで、コード進行の展開よりも音の持続と減衰の過程に耳が向く。Pharoah Sandersのソプラノサックスが登場するのはかなりあとのことで、最初のフレーズはほとんど息の音に近い短いものだ。ロンドン交響楽団の弦はその周囲を漂うように配置されていて、どのパートも前に出てこようとしない。全体のテンポを「遅い」と言うのは正確ではなくて、時間の単位が別のところに設定されている、という感覚に近い。四分音符ではなく呼吸で拍を数えているような音楽だと思う。
録音の空間がよく見える作品だと思う。弦のロングトーンが消えていく末尾の微細な揺れ、ピアノの余韻が落ちていく過程に紛れ込む部屋の気配、サックスの音が鳴り終える直前の沈黙の質感。どれも、スピーカーで鳴らしたほうが伝わりやすい種類の情報だと感じて、棚の奥にしまっていたブックシェルフスピーカーを今日は引っ張り出した。中野のアパートは広くないが、午後の光が斜めに奥まで差し込む時間帯に限って、この音楽はよく馴染む。受け取る側の条件として、そういう相性がある。
このアルバムが試みているのは、即興と構築のあいだの場所を探ることだと私には映る。Sandersは録音当時すでに八十代で、演奏に勢いや即興的な跳躍を期待するのはそもそも見当違いだ。そのかわりに、音符の数を極限まで削ぎ落としたフレーズの中に、長いキャリアで積み上がった何かが静かに沈殿しているように聴こえる。それを「円熟」と呼ぶのは少し違う気がする。ただ、音の重力が違う、とでもいうような感触がある。短いフレーズが終わったあとの余白のとり方に、演奏者が積み上げてきた時間が透けて見えることがある。そういう聴き方をするようになったのはいつからだろうと、少し考えた。感傷的に言いたいわけではなく、純粋に音響の観察として書いている。
届いていない部分があるとすれば、後半の章でShepherdの電子音処理が若干前に出すぎる瞬間がある。Sandersの音がそこでわずかに後景に退いて、全体のバランスが揺れる。ポスト・ジャズ的な文法のなかで「心地よさ」の手がかりを与えようとするとき、ああした引力が働くのは分かる。このアルバムはほぼその引力に抗えているが、完全にではない、という印象は残る。それが商業的な制約なのか、Shepherdの意図なのかは、外側からは判断できない。どちらにせよ、そこだけが少し惜しかった、と思う。
日が暮れるのをそのまま見ていた。翌朝また取り出すかもしれない。特定の光の傾きと、この音楽はたしかに結びついている。
#音楽日記 #批評メモ #ジャズ #静かな土曜