深夜一時を過ぎたコインランドリーで、石田は雨上がりの匂いをまとったまま洗濯物をドラムに押し込んでいた。
入口の近くの椅子に、折り畳みでない黒い傘が立てかけてあった。取っ手の革の部分が少し擦り切れていて、うすく「M」と読める文字が彫ってある。店内に他の客はいない。傘の持ち主がいつ忘れていったのか、わからなかった。五月の終わりの夜で、昼間の熱気が少しだけアスファルトに残っていた。
百円玉を三枚入れると、機械が揺れ始めた。石田はプラスチックの椅子を引いて座り、天井の蛍光灯を見上げた。一本だけわずかにちらついている。外の自動販売機が低く唸っていて、缶コーヒーのボタンのところだけが橙色に光っている。ガラス窓の向こうに濡れたアスファルトが見えた。人通りはなかった。五月の最後の夜は、どこか静かだった。
三十分、何もしなかった。スマートフォンを取り出しかけて、やめた。画面を開けば誰かに連絡ができるはずなのに、今夜に限ってその誰かが思い浮かばなかった。そういう夜が、たまにある。引っ越しが終わって一週間が経つのに、まだ部屋のどこかが空っぽな感じがして、その空白が何なのかを、石田はずっと考えないようにしていた。
ドアが開いたのは、洗濯機があと五分で止まるというころだった。入ってきた女性は、濡れた肩のまま迷わず傘のところへ歩いた。傘を手に取り、振り返って石田を見た。年齢はよくわからなかった。三十代か、もう少し上か。疲れているというより、長い夜に慣れているような顔だった。
「遅くまで、すみません」と彼女は言った。
石田は首を横に振った。何か言いたかったが、何も思い浮かばなかった。女性はドアを開けて出ていった。雨の匂いが一瞬だけ濃くなって、またすぐ薄れた。橙色の自動販売機の光が、ガラスの向こうでぼんやりと続いている。
洗濯機が止まる音がした。石田は立ち上がり、湿った洗濯物を一枚ずつカゴに移した。最後にタオルが出てきたとき、手が止まった。引っ越しのときに荷物に混じっていたもので、誰のものかわからないまま三年間洗い続けてきた。捨てられずにいた。隅に小さく刺繡がある。「M」という文字だった。
石田はしばらくそれを見ていた。あの傘の「M」と同じかどうか、確かめる方法はない。外はもう雨が上がっているようだった。あの人はもう傘を必要としていないかもしれない。カゴを抱えて立ち上がり、蛍光灯のちらつきがいつの間にか止まっていたことにだけ、気づいた。
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