古い革の手帳を開いたら、三年前の自分が書きかけた物語の冒頭が残っていた。「雨が降り始めた瞬間、彼女は傘を閉じた」というたった一行。なぜそんな行動を選んだのか、当時の自分も答えを書き残していない。
今朝、窓際でその一行を何度も読み返した。外では本当に雨が降っていて、傘を持たずに出かける人の姿が見えた。急いでいるわけでもなく、ただ雨に濡れることを選んだように見えた。その人の背中に、三年前の登場人物が重なった。
もしかしたら、傘を閉じるという行為は抵抗ではなく、何かを受け入れる儀式なのかもしれない。雨粒が肌に触れる感触を通して、現実との境界線を確かめるような。そう考えると、書きかけだった物語の続きが、ゆっくりと形を取り始めた。
彼女は傘を閉じて、五分間だけそこに立っていた。通り過ぎる人々は傘を差して足早に去っていく。でも彼女の時間は、雨と共にゆっくり流れていた。濡れた髪から雫が首筋を伝う。冷たいはずなのに、不思議と温かく感じた。
「なぜ傘を閉じたの」と誰かが尋ねたら、彼女は何と答えるだろう。「忘れたかったから」か、「思い出したかったから」か。どちらでもあり、どちらでもない。言葉にした瞬間、その理由は嘘になる。
ノートに万年筆を走らせながら、この物語の結末はまだ書かないでおこうと決めた。いつか本当の雨の中で、自分も傘を閉じてみるまでは。その時初めて、彼女の選択の意味が分かる気がした。
窓の外では雨が強くなっていた。手帳を閉じて、万年筆のキャップを締める。インクの匂いが部屋に残っている。
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