窓の外で雨が降り始めた音が聞こえた時、私はちょうど書きかけの物語の最後の一行を削除したところだった。カーソルが点滅している空白の画面を見つめながら、外の世界が静かに濡れていく音に耳を傾けた。
その物語には、ある老人が登場していた。彼は毎朝同じベンチに座って、通り過ぎる人々を眺めている。ただそれだけの話。何も起こらない。誰も傷つかない。でも、その静けさがどうしても書ききれなかった。「平凡な日常にこそ、本当の物語がある」と誰かが言っていたけれど、その「本当」をどう掴めばいいのか、私にはまだわからない。
削除した一行には、老人が立ち上がって去っていく場面が書かれていた。でもそれは嘘だった。私が見た老人は、最後まで座っていた。なぜ私は、見たままを書けなかったのだろう。何かが起こらなければ物語にならないと思い込んでいたのかもしれない。あるいは、何も起こらないことの重さを、まだ言葉にできないだけなのかもしれない。
雨の音が強くなった。窓ガラスを叩く雫の一つ一つが、異なるリズムを刻んでいる。その不規則さが、なぜか心地よかった。完璧に揃った音楽よりも、この予測できないリズムの方が、今の私には必要な気がした。
もう一度、最初から書いてみることにした。今度は老人を立ち上がらせない。ただ座っている。風が吹いて、誰かが傘を差す。それだけでいい。起承転結がなくても、この静かな時間を、そのまま受け止めてみようと思う。物語は、必ずしも何かが変わることを描かなくてもいいのかもしれない。
書き終えた時、雨はまだ降っていた。でも、空には少しだけ明るさが戻り始めていた。
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