朝、窓を開けたら、春の匂いがした。土の湿り気と、どこかの庭から流れてくる沈丁花の甘さ。三月の終わりは、いつもこうして静かに近づいてくる。
机の上には、昨夜書きかけた物語の原稿が置いてある。主人公の名前を三度も変えてしまった。最初は「ユキ」、次に「ミズキ」、そして今朝は「シオリ」。名前ひとつで、人物の輪郭が変わる。声が変わる。歩き方まで変わってしまう気がして、私は何度もページを繰り返した。結局、名前を決めることは、その人物を信じることなのだと気づいた。
午後、近所の古書店に立ち寄った。棚の奥で、見覚えのある詩集を見つけた。高校生のとき、図書室で何度も読んだ本。ページを開くと、誰かの鉛筆の線が引いてあった。「言葉は、沈黙の縁を歩く」という一節に。その線を引いた人のことを考える。私と同じ行に心を留めた、知らない誰か。
夕方、書きかけの物語に戻った。シオリは、誰にも言えない秘密を抱えて、雨の中を歩いている。彼女の足音、傘を叩く雨粒、遠くで鳴る救急車のサイレン。五感で世界を組み立てていくと、物語は勝手に動き出す。私はただ、後ろからついていくだけだ。
窓の外が薄闇に沈む頃、ようやく一つの場面が終わった。完璧ではない。でも、何かが残る場面になった。読み返すと、胸の奥がかすかに震える。それでいい。物語は、説明し尽くされた瞬間に死ぬ。余白こそが、読む人の呼吸を宿す場所なのだから。
今夜の月は細く、頼りない。でも、確かにそこにある。物語も、きっとそうだ。
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