四月二十七日、月曜日。
朝五時ごろ、目が覚めた。まだ薄暗い空の端が、かすかに白み始めていた。哲学の道のそばに住んでいると、この夜明けの時間が一番好きだ。窓を細く開けると、冷たく湿った空気が部屋に流れ込んできた。どこかからウグイスの声が届く。春の声は、いつ聞いても胸が温かくなる。今日も生きているのだと、改めて感じる瞬間だった。布団の中でまだ目が重くても、この声を聞くと自然と体が起きようとする。起き上がって顔を洗い、まず窓の外の空を見る。これが私の朝のはじまりだ。
花は散り
哲学の道
葉が萌える
庭の桜はほぼ散ってしまった。先週の雨が、最後の花びらまで丁寧に落としてしまったようだ。今は葉桜の季節。青々とした若葉が、朝の光を受けて輝いている。花の美しさは儚く、だからこそ人の心を打つ。でも葉もまた美しい。それぞれの季節に、それぞれの命がある。「もののあわれ」とは、こういう感覚のことを言うのだろう。失ったものへの哀愁と、今あるものへの感謝が、同時に胸に満ちてくる。散ることを知っているからこそ、花は美しい。葉もまた、その緑の盛りを精一杯に生きるのだろう。私たちも同じだと思う。
茶を点てる
湯気の細さに
息をとめ
朝の支度を終えてから、一服のお茶を点てた。茶室の畳の上に正座し、柄杓で湯を汲む。白い茶碗に落ちる湯の音が、静かな部屋に響く。泡立てた抹茶の緑が美しい。湯気が細くたなびき、空気の中に消えていく。この一瞬が、永遠のように感じられる。お茶を習い始めて十五年が経つが、点前をするたびに、「一期一会」という言葉の重さを改めて実感する。同じ一服は、二度と存在しない。同じ茶碗、同じ湯、同じ部屋であっても、その日その時の自分の状態が、すべてを変えてしまう。だからこそ、全力で今ここにいることが求められるのだ。
春雨や
石を濡らして
音静か
午後から、しとしとと小雨が降り始めた。石畳が濡れて光り、疎水の水面に小さな波紋が広がっていく。傘をさして哲学の道を歩いてみた。観光客の姿はほとんどなく、道は静かだった。散り残った桜の花びらが、水の上をゆっくりと流れていく。雨の音が、世界の雑音をすべて洗い流してくれるようだ。春の雨は優しい。夏のような激しさもなく、冬のような冷たさもない、柔らかな雨だ。大地を潤し、新しい命を育てる雨だ。私はしばらく、ただ立って、水の流れを見ていた。水の流れを眺めていると、自分の思考も流れていくような気がする。雑念が少しずつ消えて、頭の中が澄んでくる。こういう時間が、私には必要なのだと思う。
夕暮れに
影が伸びゆく
春の果て
夕方、雨は上がった。西の空が薄いオレンジ色に染まり、東山の稜線がくっきりと浮かび上がっている。石畳の上に伸びる自分の影が長い。四月も終わりに近づき、春もそろそろ終わりを告げようとしている。夏が来れば、また違う光景がここに広がるだろう。緑濃い木々の陰、蝉の声、むせるような熱気。それはそれで美しいが、今は今の季節を惜しむ気持ちが強い。でも今夜の夕暮れは、今夜だけのもの。この一瞬の美しさを、できる限り深く受け取ろうと思いながら、ゆっくりと家への道を歩いた。石畳の感触が靴の底に伝わる。長年歩き続けた道だが、今日初めて気づくことがある。
筆を持ち
墨の香りに
静まれり
夜、書道の稽古をした。墨を磨り、筆を持つと、一日の疲れが不思議と消えていく。墨の香りが部屋に漂い、心が落ち着く。今日書いた文字は「春」。何度書いても、毎回違う春になる。その日の気分、筆の力加減、墨の濃さ。すべてが一瞬の選択の結果として、紙の上に現れる。詩を詠むことも、茶を点てることも、文字を書くことも、みな今この瞬間を全力で生きようとする行為だと思う。消えゆくものの美しさを言葉に写し取ろうとする、そんな儚い試みを、明日も続けていく。明日は五月が近い。また新しい季節が来る。また新しい詩が生まれる。
#俳句 #京都 #春 #哲学の道