春の訪れを告げるように、小さな路地裏で見つけた蕎麦屋の暖簾が風に揺れていた。「春野菜の天ぷら蕎麦」という黒板のメニューに惹かれて、思わず暖簾をくぐった。
運ばれてきた器を見た瞬間、目を奪われた。深い藍色の蕎麦猪口の中で、透き通った琥珀色の出汁が静かに湯気を立てている。その上に、菜の花、たらの芽、ふきのとうの天ぷらが、まるで春の野を切り取ったように盛られていた。衣の淡い黄金色が、柔らかな午後の光を受けてきらきらと輝いている。
鼻を近づけると、一番出汁の上品な香りに混じって、揚げたての天ぷらから立ち上る春の香りが広がる。ふきのとうのほろ苦い香り、菜の花の青々しい香り、そして蕎麦の実の香ばしさ。この三つが絡み合って、記憶の奥底にある春の野山を呼び覚ます。
まずは蕎麦を一口。ツルツルッとした喉越しの後に、蕎麦本来の甘みがじんわりと広がる。細めに打たれた蕎麦は、歯で噛み切る瞬間にプツンという心地よい弾力を残す。出汁は鰹と昆布の旨味が完璧なバランスで、蕎麦の風味を引き立てながらも、決して主張しすぎない。
そして天ぷら。菜の花はサクッと噛むと、中からジュワッと春の苦みと甘みが溢れ出す。たらの芽はカリッとした衣の中にホクホクの柔らかな新芽が包まれていて、野趣あふれる香りが口いっぱいに広がる。だが、圧巻はふきのとうだ。一口齧ると、ザクッという音とともに、大地の香りと春特有のほろ苦さが舌を刺激する。この苦みは、長い冬を越えた体に「目覚めよ」と語りかけてくるような、力強い味わいだった。
店主に聞くと、天ぷらの野菜は全て朝採れの地元産だという。「春の苦みは体に良いんですよ」と微笑む店主の言葉に、祖母が毎年春になると山菜を採りに行き、天ぷらにして食べさせてくれたことを思い出した。あの時の、ほろ苦さの中にある優しさが、今、この一杯の蕎麦の中に蘇っている。
最後の一滴まで出汁を飲み干し、蕎麦湯で器を温める。とろりとした蕎麦湯の甘みが、春の余韻を静かに締めくくった。季節を食べるということは、こういうことなのだと改めて感じた午後だった。
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