五月の終わり、東京の小さな魚屋の店頭に「初鰹入荷」の手書き札が揺れていた。
その言葉を見た瞬間、胸の奥でなにかがふわりと灯るような感覚があった。毎年この季節になると、必ず思い出す祖母の台所の記憶。まな板の上で光る銀青の魚体、包丁が入るたびに漂ってくる潮の香り。走り鰹は、私にとって初夏そのものの味だ。
柵を手に取ると、表面はしっとりと濡れた艶をたたえ、赤みがかった桜色の断面が息をのむほど美しい。脂の乗りが控えめな走り鰹は、その分だけ身が引き締まって透明感がある。冬の寒鰹のような濃厚さとは対極にある、清潔な美しさだ。
薄切りにした生姜と青葱を添え、たたきにして皿へ盛る。食卓に運ぶ間にも、かすかに磯の風が漂ってくる気がして、思わず目を閉じた。
口に入れた瞬間、まずサックリとした歯ざわりが来る。表面だけをさっと炙った皮目はパリッとしていて、その内側の生の部分はシットリとなめらかだ。嚙み締めるほどに、旨みがじんわりと広がっていく。脂肪分が少ない分、味わいは凛としてすっきりしている。鉄分を含む赤身特有のコクが舌の奥でほんのりと主張し、添えた生姜の爽やかな辛みが余韻をきれいに洗い流す。
醤油は少量でよい。むしろ、塩とレモンのほうがこの季節の鰹には似合う。柑橘の酸がふわりと立ち上がり、魚の甘みをいっそう際立たせる。
走り鰹には、贅沢な食材には珍しい「潔さ」がある。飾らず、重すぎず、ただ初夏の到来を静かに告げるような味。毎年この一皿を食べるたびに、季節を体で受け取っている気持ちになる。
食べることは、時間を食べることでもあると、私はいつも思う。
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