三月の冷たい雨が降る木曜の夜、偶然見つけた路地裏の小さな蕎麦屋で、一生忘れられない一杯に出会った。
引き戸を開けると、鰹と昆布の出汁が織りなす芳醇な香りが、湿った空気を切り裂くように鼻腔をくすぐる。カウンターに座ると、店主が無言で菜の花の天ぷら蕎麦を打ち始めた。
まず目を奪われたのは、その蕎麦の色だ。石臼挽きの十割蕎麦は、グレーがかった緑色をしていて、粉の粒子がキラキラと光を反射している。丁寧に盛られた蕎麦の山は、まるで芸術作品のような佇まいだった。
菜の花の天ぷらが運ばれてきた瞬間、衣のサックサクという音が聞こえてきそうなほど、完璧な揚げ加減だ。淡い黄緑色の菜の花が、薄衣の向こうに透けて見える。一口齧ると、ザクッという小気味よい音とともに、ほろ苦さと春の香りが口の中に広がった。その苦味は決して不快ではなく、むしろ季節の移ろいを感じさせる、優しい大人の味わいだ。
蕎麦をひと啜り。ツルツルッという喉越しの爽快感。次の瞬間、蕎麦の実の風味が鼻に抜ける。この蕎麦は、噛むたびにモチモチとした弾力と、蕎麦粉の甘みを感じさせてくれる。機械打ちでは絶対に出せない、手打ちならではの不均一な太さが、食感のリズムを生み出している。
出汁は澄んでいて、琥珀色に輝いている。一口すすると、じんわりと身体の芯まで温まる。鰹節の旨味が舌の上で踊り、昆布の深いコクが後から追いかけてくる。塩加減は絶妙で、蕎麦の風味を消すことなく、むしろ引き立てている。
幼い頃、祖母と一緒に食べた蕎麦を思い出した。あの時も、こんな風に丁寧に作られた蕎麦だった。食べ物には、時を超える力がある。一杯の蕎麦が、失われた時間を呼び戻してくれる。
店を出る頃には雨は上がっていたが、心の中にはまだあの温かさが残っていた。
#グルメ #蕎麦 #菜の花 #春の味