放課後、廊下の突き当たりに女の子が立っていた。
同じクラスの橘さんだと思った。後ろ姿で、肩までの黒髪、制服の白いブラウスが西日の中にぼんやりと浮かび上がっていた。窓の外では運動部の掛け声が遠く聞こえていたが、廊下の先はひどく静かだった。放課後の旧校舎棟はいつも人が少ない。廊下の蛍光灯が一本だけ切れていて、突き当たりだけが夕暮れの薄明かりに沈んでいた。
「橘さん、もう帰るよ」
声をかけたが、彼女は動かなかった。廊下の先、階段の前に、ただじっと立っていた。返事もなく、振り向きもしない。何を見ているのか。壁には何もなかった。風もないのに、髪が少しだけ揺れた気がした。近づいてみようとしたこともある。でも、近づくたびに距離が縮まらない気がして、途中で止まった。気のせいだと思った。
翌日も、そのまた翌日も、放課後の廊下に白い背中があった。いつも同じ場所。いつも同じ姿勢で、窓のない壁のほうを向いていた。声をかけても振り返らない。近づこうとすると、なぜか足が重くなった。廊下の空気が、そこだけ少し冷たかった。指先がじんとした。
不思議に思いながらも、深く考えなかった。あの子は何か悩みを抱えているのかもしれない、と思っただけだった。
一週間が経った頃、隣の席の子が何気なく言った。「そういえば橘さん、最近全然来てないよね。もう三週間くらいになるかな。先生も何も言わないし、ちょっと心配。LINEも既読にならないし」
胃の底が、冷えた。
三週間。
橘さんは三週間、学校に来ていない。
では、廊下に立っていたあれは、誰だったのか。
放課後、また廊下の突き当たりへ向かった。自分でも、なぜ行くのかわからなかった。薄暗い廊下の先、階段の前に、白いブラウスの背中があった。今日も動かない。今日も、こちらを向かない。
足音を立てないように近づいた。三歩、二歩、一歩。
空気が急に冷えた。
意を決して、名前を呼んだ。
「橘さん」
その瞬間、背中がゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらを向こうとした。
私は走った。振り返らずに、ただ走った。鞄も机の上に置いたまま、ローファーの音が廊下に響いた。角を曲がり、階段を駆け下りて、一階の出口まで走り抜けた。外の空気を吸って、ようやく足が止まった。心臓が激しく打っていた。夕日が眩しかった。普通の世界だった。
翌朝、担任が教卓の前に立った。いつもと表情が違った。声も、どこか乾いていた。
「皆さんに報告しなければならないことがあります。橘さんですが、昨夜——」
そこで担任は言葉を止めた。
教室が、しんと静まり返った。誰かが息をのむ音が聞こえた。窓の外では、今日も普通に風が吹いていた。校庭の木の葉が揺れていた。何も知らないふうに。
私は前を向いたまま、何も考えないようにした。
その日の放課後、廊下の突き当たりには誰もいなかった。
ほっとしながら昇降口へ向かおうとしたとき、ふと窓ガラスに目が入った。
廊下が映っていた。
ガラスの中の廊下、その突き当たりに、白い背中があった。
背中が、ゆっくりと振り返った。
窓ガラスの中だけで、目が合った。
その顔は笑っていた。
口だけが、笑っていた。
それから毎日、放課後になると、窓ガラスに映る廊下を見ないようにしている。
でも昨日から、窓ガラスがなくても、見えるような気がしている。
#怪談 #ホラー #学校の怪談 #恐怖