母が入院してから、私は一人で実家に帰ることが多くなった。
築四十年の一軒家は、夜になると独特の静けさを持つ。風が吹くたびに軋む廊下。壁の中で何かが動くような低い音。電球が切れかけて、ときおりジジッと明滅する台所の照明。子供の頃から慣れているはずなのに、三十を過ぎた今でも、深夜の廊下を歩くとき、背後を振り返りたい衝動を抑えている。
その晩も、仕事の資料を整理しながら遅くまで起きていた。時計が午前二時を指した頃、喉が渇いて台所に向かおうとした。廊下の電気をつけるのが億劫で、スマートフォンのライトを頼りに歩くことにした。
廊下は長い。子供の頃、よく全力で走ったものだ。今は静かに、できるだけ足音を立てないように歩く。板が軋む音が、やけに大きく聞こえた。
洗面所の前を通りかかったとき、扉が少し開いていることに気づいた。
おかしい。家には私しかいない。私が開けた覚えはなかった。
引き返そうかと思いながら、足が止まった。扉の隙間から、古い鏡が見えた。スマートフォンの光が薄く反射して、鏡の中に自分の輪郭が映っている。暗くてぼんやりとしているが、確かに私の影がそこにある。
私は立ち止まった。
鏡の中の私も、立ち止まっていた。
それは当然のことだ。でも、何かがおかしかった。
じっと見ていると、鏡の中の自分が、ゆっくりと首を傾けた。
私は傾けていない。
息を呑んだ。目を凝らす。暗くてよく見えない。見間違いかもしれない。光の加減かもしれない。でも、私の手は微動だにしていなかった。
それは確かに、私とは別に動いていた。
もう一歩踏み込もうとしたとき、スマートフォンの画面が暗くなった。バッテリーが切れたのだ。
真っ暗な廊下で、鏡のあった場所だけが、わずかに白く浮かんでいた。
そこに、何かが立っていた。
こちらを向いていた。
私は全力で自分の部屋に走り込み、明け方まで布団をかぶって過ごした。
翌朝、意を決して洗面所を確認しに行った。鏡は何の変哲もなかった。くすんだ縁、古びた表面。ただの古い鏡だ。でも、表面に指紋のような跡がいくつか残っていた。内側から触ったような形の跡が。
気になって、病院にいる母に電話した。「昨夜、洗面所の扉が開いてたんだけど」と伝えると、母はしばらく黙ってからこう言った。
「あの洗面所、もう十年以上前に鍵をかけたはずよ。鏡に変なものが映るって言われて、怖くなって」
私は廊下に戻り、洗面所の扉を確かめた。
頑丈な南京錠がかかっていた。埃をかぶった、古い南京錠が。
昨夜、私が通った廊下。開きかけていた扉。隙間から見えた鏡。
どこから入ったのか、私にはわからない。
ただ、その夜から、廊下の突き当たりを見ないようにしている。それでも時々、扉の向こうから、かすかな音がするような気がする。
板が軋む音ではない。
何かが、鏡の内側を、指で叩くような音が。
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