梅雨の合間、雨が止んだ夜のことだ。
友人の真奈から電話があったのは、午後十一時を少し回った頃だった。声が妙に平坦で、「鏡を見てはいけない」とだけ言った。それだけ言って、電話は切れた。
冗談だろう、と思いながらも、私はその夜、洗面台の鏡に布をかけた。
翌朝、真奈に折り返すと、番号は使われていないというアナウンスが流れた。確かめようと彼女の家まで行くと、表札は外されていた。隣の老婦人が言うには、「あそこには十年前から誰も住んでいない」と。
しかし私は、去年の春、その家でお茶を飲んだ記憶がある。
気になって、古いスマートフォンの写真フォルダを遡った。真奈と映った写真を探したが、見つからない。あるはずの写真が、ない。ただ、何枚かの写真の端に、見覚えのない女性の輪郭が写り込んでいることに気がついた。
ぼんやりとした、笑っているような輪郭。
昨夜かけた布を外そうと洗面台に向かったとき、私は気づいた。布の表面が、内側から押されるように、微かに膨らんでいた。
私は布を外さなかった。
今もそのままにしてある。ときどき夜中に、洗面台の方角から、水が流れるような音がする。蛇口は閉まっている。確認しに行くたびに、布はそのままだ。
ただ、少しずつ、濡れてきている気がする。
真奈が何を見たのか、私にはわからない。なぜ彼女が私に電話をしてきたのかも。ただひとつ確かなのは、鏡というものは、こちら側の世界だけを映しているわけではない、ということだ。
そして、向こう側にいるものも、同じようにこちらを見ているのかもしれない。
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