あの日、終電を逃した私は、普段使わない地下鉄の出口から地上へ出た。
階段を上がりきると、見慣れない商店街が広がっていた。シャッターが下りた店が並び、街灯が所々で点滅している。スマホの地図アプリを開いたが、なぜか現在地が表示されない。
仕方なく歩き始めると、一軒だけ明かりのついた小さな喫茶店があった。「カフェ・ミズカガミ」という看板。中には客がいないようだったが、ドアには「営業中」の札が掛かっている。
喉が渇いていた私は、中に入った。
店内は古びていたが清潔で、カウンターの奥に白髪の老婦人が立っていた。彼女は無言で水の入ったグラスを差し出した。冷たい水は美味しかった。
「ここ、どこですか」と尋ねると、老婦人は黙って窓の外を指差した。
窓の向こうに、さっきまでいた商店街が見えた。しかし何かが違う。街灯が全て消えている。そして、人影が一つ、二つ、三つ。同じ場所を行ったり来たりしている。
よく見ると、その影の一つは私だった。
背を向けたまま、老婦人が言った。
「もう一杯、いかがですか」
私の前のグラスは、いつの間にか空になっていた。そして気づいた。テーブルの上に、濡れた足跡が続いている。店の奥へ、奥へと。
「大丈夫です」
そう言って店を出ようとドアに向かうと、ガラスに映った自分の姿が見えた。
私の服は、びっしょりと濡れていた。
気づけば、商店街に人影はなくなっていた。スマホの時計を見ると、午前三時を指していた。しかし、入店したのは午前一時のはずだ。地図アプリを開くと、今度は現在地が表示された。
自宅から徒歩五分の場所。
振り返ると、喫茶店はもうなかった。そこにあったのは、古い井戸の跡を示す石碑だけ。
碑文には、こう刻まれていた。
「昭和四十二年 水鏡井戸跡 溺死者三名 合掌」
私の靴の中で、何かがちゃぷんと音を立てた。
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