放課後の音楽室に忘れ物を取りに行ったのは、秋の夕暮れ時だった。
廊下はもう薄暗く、窓から差し込む光が床に長い影を落としていた。音楽室の扉を開けると、いつもの木の匂いと、微かに埃っぽい空気が鼻をついた。
楽譜を取って、すぐに帰るつもりだった。
でも、ピアノの前を通り過ぎようとした時、黒板の隅に小さな文字が書かれているのに気づいた。
「みえる?」
誰かのいたずらだろう。チョークを持って消そうとした瞬間、廊下から足音が聞こえた。
パタ、パタ、パタ。
上履きの音だ。誰かがこちらに向かってくる。でも、その足音は妙にリズムが崩れていて、まるで片足を引きずるような、不自然な間隔だった。
足音は音楽室の扉の前で止まった。
私は息を殺して、扉を見つめた。ノブが、ゆっくりと回り始める。
入ってきたのは、見たことのない女子生徒だった。セーラー服を着ているけれど、どこか古めかしく、色も褪せて見えた。彼女は私を一瞥すると、ピアノの方へ歩いていった。
「あの……」
声をかけようとしたが、彼女は座ってピアノを弾き始めた。
音は出なかった。
指は鍵盤の上を動いているのに、一つも音が鳴らない。彼女は何度も何度も同じ動きを繰り返した。まるで壊れた機械のように。
気づけば、窓の外はもう真っ暗だった。
何分経ったんだろう?
彼女はふいに振り向いて、私を見た。その瞳には何も映っていなかった。空っぽの、ただの穴のような目だった。
「みえる?」
彼女の口が動いた。声は聞こえなかったけれど、唇の形でそう言ったのが分かった。
私は後ずさりして、扉に手をかけた。廊下に飛び出して、振り返ることなく階段を駆け下りた。
翌日、担任の先生に昨日のことを話すと、先生は少し顔色を変えた。
「音楽室で、誰かを見たの?」
「はい。女子生徒が一人……」
先生は黙って、古いアルバムを開いた。そこには、三十年前の卒業写真があった。
「この子じゃない?」
指差された写真の中に、あの女子生徒がいた。
「彼女、音楽室で一人で練習中に亡くなったの。ピアノの前でね」
それ以来、放課後の音楽室には近づかないようにしている。
でも時々、校舎に残っている時、どこからか聞こえてくる。
音の出ないピアノの、旋律。
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