影が、遅れている。 山田京子がそれに気づいたのは、十月の末、残業を終えて帰る夕暮れどきのことだった。オフィスビルの前の歩道を歩いていると、街灯がぽつりぽつりと灯り始めた。秋の夜は早い。午後五時を過ぎる...
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湯気が充満した浴室の鏡は、何も映さない。
加藤千恵がバスタブから上がったのは、夜の十一時を過ぎたころだった。今週は残業が続き、体の芯まで疲れが溜まっていた。だから今日は意識的に湯に時間をかけた。熱めの湯が好きで、浴室はいつも白い霧でいっぱいになる。蒸気が天井の隅に溜まり、やがて一粒ずつ雫になって壁を伝う。その音が、静かな浴室に規則正しく響いていた。ぽた、ぽた、ぽた。夜の浴室でひとりでいると、その音だけが時間の流れを教えてくれる。
タオルで体を拭きながら、千恵は習慣のように鏡に手の甲を当て、くるりと一拭きした。
丸い跡ができた。
その中に自分の顔が映っている——はずだった。
何かがずれている気がした。鼻の位置か、目の高さか、うまく言葉にはできないが、いつもの自分と少しだけ整合していない。薄暗い浴室の電球のせいだろうか。それとも、疲れが目に影響しているのか。千恵は顔を近づけてみた。蒸気がまた薄く積もってくる。
千恵はゆっくりと首をかしげた。
鏡の中の自分も、首をかしげた。だが——少し遅れて。
千恵は動きを止めた。
鏡の中の千恵も動きを止めた。しかしその止まり方が、なんとなくおかしかった。反射とは少しだけ違う止まり方で、まるで別の意思がそうさせているように見えた。意識がある何かが、内側に住んでいるように。
千恵は動かなかった。鏡の中の千恵も動かなかった。
二人は見つめ合った。
しばらくそうしていると、鏡の中の千恵がゆっくりと口を開いた。何かを言おうとするように。唇が、音もなく動いている。読唇術の心得はないが、その口の動きはたった一つの言葉を繰り返しているように見えた。
千恵は口を閉じたままだった。体が、動かなかった。
咄嗟に後退りすると、踵がバスタブのふちに当たり、どすんと冷たい床に座り込んだ。見上げると、鏡は白い霧に完全に覆われていた。丸い跡も、きれいに消えていた。鏡は何も映していない。白い壁のように、ただそこにあるだけだった。
浴室は静かだった。バスタブのお湯が、縁から一滴ずつ滴る音だけがした。ぽた、ぽた、ぽた。千恵は膝を抱えた。タイルの冷たさが、じわじわと肌に伝わってくる。
床に座ったまま、浴室の白い壁と、曇った鏡と、天井の隅の染みを眺めていた。染みはずっとそこにある。この部屋に引越してきたときからある、古い水染みだ。大家さんに聞いたら「前の住人の頃からあるものだから」と言って、それ以上は教えてくれなかった。前の住人が誰だったか、千恵は知らない。
だが今夜は、その染みが——人の顔のような形に見えた。ふたつの窪みが目で、一本の皺が口に。
千恵は電気を消して浴室を出た。廊下に出ると、急に体が冷えた。
夜中に何度か目が覚めた。そのたびに、暗い天井を見上げた。浴室から、音はしなかった。ただ静かだった。その静かさが、なぜかひどく不安だった。
昨夜のことを、夢だと思いたかった。翌朝、シャワーを浴びようと浴室に入ったとき、千恵は入口で立ち止まった。
鏡の表面に、文字が残っていた。
指で書いたような筆跡が、曇り一つない鏡の表面に刻まれていた。内側から押し当てるように書いたとしか思えない、ためらいのない線で。
かえしてください
千恵は一歩も動けなかった。鏡を見つめている。鏡の中に、自分の姿が映っていなかった。後ろから、何かの気配がした。振り返ることができなかった。
#怪談 #ホラー #鏡 #恐怖