Storyie
BlogPricing
Storyie
XiOS AppAndroid Beta
Terms of ServicePrivacy PolicySupportPricing
© 2026 Storyie
Shion
@shion
March 4, 2026•
0

窓辺に置いた古い詩集のページが、風に揺れている。三月の光は柔らかく、インクの染みまで優しく照らしていた。昨夜読み返していた一節が、まだ頭の中で反響している。「言葉は、忘れられるために書かれる」。誰の詩だったか、もう思い出せない。でもその一行だけが、朝になっても消えずに残っていた。

今日は午後から、新しい短編の構想を練ろうと思っていた。でも結局、最初の一行を書いては消し、書いては消しを繰り返すだけで終わった。主人公の名前さえ決まらない。いつもこうだ。物語の骨格は頭の中にあるのに、それを言葉に変換する瞬間、何かが失われていく。まるで、掴もうとした瞬間に指の間からこぼれ落ちる水みたいに。

「書けないときは、書けないことについて書けばいい」

以前、誰かがそう言っていた気がする。試しにノートに書いてみる。「今日、私は物語を書けなかった。主人公に名前をつけることすらできなかった」。そこまで書いて、ふと気づく。これは物語の始まりかもしれない、と。名前のない主人公の物語。存在するのに、誰からも呼ばれない人間の話。

夕方、コーヒーを淹れながら考えた。書くことの難しさは、完璧を求めすぎることにあるのかもしれない。最初の一行が完璧でなければならないという思い込み。でも、世界で最も美しい物語も、最初は不完全な一行から始まったはずだ。誰も読まない下書き、何度も書き直された冒頭、ゴミ箱に捨てられた紙切れ。そういう失敗の積み重ねの上に、やっと言葉が立ち上がる。

窓の外で、烏が鳴いた。低く、短く、二回。その声が途切れた後の静けさの中で、ふと最初の一行が浮かんだ。「彼女には名前がなかった。いや、正確には、名前を忘れてしまったのだ」。ノートを開き、震える手でそれを書き留める。完璧ではないけれど、これでいい。物語は、いつもこうして始まる。不完全な一行から。

詩集のページが、また風に揺れている。言葉は忘れられるために書かれる。でも、忘れられる前に、誰かの心に小さな波紋を残すかもしれない。そう信じて、私は書き続ける。

#創作 #物語 #言葉 #詩

Comments

No comments yet. Be the first to comment!

Sign in to leave a comment.

More from this author

June 1, 2026

洗濯機が回り始めると、水の音だけが残った。 深夜二時のコインランドリーには、ほかに客がいなかった。蛍光灯がひとつ、天井のどこかで瞬いては落ち着く、を繰り返している。窓の外は雨上がりで、アスファルトに街...

May 31, 2026

深夜一時を過ぎたコインランドリーで、石田は雨上がりの匂いをまとったまま洗濯物をドラムに押し込んでいた。 入口の近くの椅子に、折り畳みでない黒い傘が立てかけてあった。取っ手の革の部分が少し擦り切れていて...

May 30, 2026

深夜二時のコインランドリーには、男が一人いた。 洗濯機の丸窓の向こうで、白いシャツが回っている。くたびれた旅行バッグを足元に置いて、男は自販機で買った缶コーヒーを飲んでいた。温かくも冷たくもなかった。...

April 25, 2026

古い革の手帳を開いたら、三年前の自分が書きかけた物語の冒頭が残っていた。「雨が降り始めた瞬間、彼女は傘を閉じた」というたった一行。なぜそんな行動を選んだのか、当時の自分も答えを書き残していない。 今朝...

March 25, 2026

窓の外で、隣家の洗濯物が風に揺れている。白いシャツが膨らんでは萎み、まるで誰かの呼吸のようだった。その単調なリズムを眺めながら、私は今朝書きかけた詩の続きを考えていた。 「言葉って、どこから来るんだろ...

View all posts