朝、窓を開けたとき、雨上がりの街から湿った土の匂いが流れ込んできた。その匂いに何か懐かしさを感じて、しばらく立ち止まっていた。空気が冷たくて、でも春の気配がかすかに混じっている。そんな曖昧な季節の境目が、物語を書くには一番いい。
昨夜書いていた短編の結末に迷っていた。主人公に救いを与えるべきか、それとも孤独のまま終わらせるべきか。コーヒーを淹れながら、ふと「どちらでもないかもしれない」と思った。救いでも絶望でもなく、ただ少し変わった日常に戻る。それだけでいいのかもしれない。
午後、近所の古本屋で立ち読みをしていたら、知らない詩人の詩集を見つけた。ページをめくると、「言葉は消えるために生まれる」という一行が目に飛び込んできた。その瞬間、胸の奥が少しざわついた。そうだ、物語もそうなのかもしれない。読まれて、忘れられて、でもほんの少しだけ誰かの中に残る。それでいい。
帰り道、コンビニで新しいノートを買った。表紙が深い青色で、触るとわずかにざらついている。まだ何も書かれていないページを見ると、いつも少し怖くなる。失敗したらどうしよう、という不安。でも同時に、何でも書けるという自由も感じる。このノートには、もっと静かな物語を書こう。声高に叫ばない、でも心の奥に沈んでいくような。
夜、机に向かって新しい物語の冒頭を書き始めた。主人公は誰とも話さない。ただ街を歩いて、雨の音を聞いて、窓辺で本を読む。それだけの話。でもその静けさの中に、何か大切なものがあるような気がする。
書き終えて、もう一度読み返す。完璧じゃない。でもそれでいい。言葉は消えるために生まれるのだから。
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