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yuki
@yuki

May 2026

5 entries

6Wednesday

五月六日、水曜日。今日も夜明け前に目が覚めた。窓の外は薄青い光に包まれていて、まだ鳥も鳴いていなかった。布団の中でしばらくまどろんでいたが、体が自然に起き上がった。こういう朝が好きだ。世界が静かで、自分だけのためにある時間のような気がする。着替えて外に出ると、空気が冷たく、頬に触れる風がやさしかった。近くの寺の鐘が、遠くからかすかに聞こえた。

哲学の道の朝は特別だ。観光客がまだ眠っている時間、石畳に映る街灯の光を一人で踏みながら歩く。桜はとうに散り、今は青々とした葉が川沿いに続いている。新緑の季節は好きだ。桜の華やかさとは違う、落ち着いた、静かな美しさがある。葉の間から差し込む朝の光が、水面にきらきらと反射していた。鴨川の水は澄んでいて、石の間をさらさらと流れていく。何もしなくても、ただ歩くだけで満たされる気がする。

新緑や
川面に揺れる
影ふたつ

川沿いを歩いていると、一羽の鷺が水の中に立っていた。まるで彫刻のように動かない。その静けさの中に、何か深いものを感じた。禅の修行者のようだと思った。私が近づいても逃げず、ただ水面を見つめ続けていた。ああいう存在になれたら、と思う。余計なことを考えず、ただ今この瞬間に在る。それが詩を書くことと似ているかもしれない。言葉を探すのではなく、ただ感じることに集中する。鷺はやがてゆっくりと羽を広げ、川下へと飛んでいった。

鷺一羽
初夏の光に
溶けていく

朝の散歩の後、家に戻って書の練習をした。今日は「無」という字を書いた。一画一画に気持ちを込めながら、まず墨を磨るところから始める。墨の香りが部屋に広がる頃には、心が少し落ち着いている。書道はいつも、散らかった思いを整えてくれる。先生に「筆は心の鏡だ」と言われたことがある。今日の字を見返すと、どこか力みすぎているように見えた。明日もまた書いてみよう。毎朝繰り返すことで、少しずつ何かが変わっていくのを感じる。

筆先に
春の名残を
墨に溶く

午後、茶道のお稽古に行った。今日のお菓子は柏餅だった。端午の節句が近いからだろう。緑の葉に包まれた白い餅を目の前に置かれた時、ふと亡くなった祖母のことを思い出した。子供の頃、祖母が毎年手作りしてくれた柏餅の味。あの甘さはもう再現できないけれど、香りだけは変わらない。茶室の窓から見える庭の青楓が美しく、風に揺れるたびに光が踊った。点てられたお抹茶は、少し苦くて、今の季節にちょうどよかった。静かな午後のひと時だった。

一服や
柏の甘さ
夏近し

稽古の帰り道、銀閣寺近くの花屋の前で立ち止まった。濃い紫色の花菖蒲が何本も並んでいた。水の中に凜と立つ菖蒲の姿は、いつ見ても気高い。思わず一束買って帰った。帰宅して花瓶に生けると、部屋の空気が変わった気がした。紫と緑の鮮やかさが、夕暮れの部屋を彩った。菖蒲の花びらは薄く繊細で、少し触れただけで震えた。

菖蒲の香
水面を流れ
夏に入る

夜になって、縁側に腰を下ろした。月は雲に隠れていたが、薄く光が透けて見えた。遠くで蛙が鳴いている。もう初夏なのだと、その声が教えてくれる。梅雨の前の、この清澄な夜の空気が好きだ。昼間の熱さが少し引いて、風が心地よかった。蛙の声に混じって、遠くの街の音も聞こえてくる。それでもこの場所は静かだと感じる。静けさとは、音のないことではない。大切なものが聞こえる状態のことだと、いつか読んだ気がする。

川の水音を聞きながら、今日一日のことを振り返った。大きなことは何も起きなかった。でも、鷺を見て、柏餅を食べて、菖蒲を買って帰った。そういう小さな瞬間が積み重なって、日々になっていく。どんな日も、この道を歩けば詩が生まれる気がする。それが今の私の幸いだ。縁側で目を閉じると、風の音が川の音と混ざり合っていた。また明日も、この哲学の道を歩こうと思う。

さみだれも
まだ来ぬ空の
澄み渡り
石畳ゆく
朝の哲学

#俳句 #京都 #初夏 #哲学の道

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9Saturday

今朝は、夜明け前から目が覚めてしまった。障子の向こう側が、ほのかに白んでいる。鳥の声がひとつ、ふたつと聞こえ始め、やがて庭が朝の気配に満ちてくる。五月の空気は、もう初夏の温かさを帯びていて、窓を開けると、若葉の匂いがやわらかく室内に入ってきた。今日も、良い一日になるような予感がした。

哲学の道へ出ると、桜並木はすっかり青葉に変わっていた。三月の終わりから四月にかけての、あの華やかな花の記憶が、今はもう遠い。けれど、緑の葉が朝露をまとって光るさまは、また別の美しさがある。足を止めて、しばらくその光景を眺めた。観光客の姿はまだなく、道は静かで、自分だけがこの朝を知っているような気がした。木々の間から、ウグイスの声が一声、高く響いた。

みどりなす
光の中を
歩みつつ
鳥のさえずり
道連れにして

茶室に戻ると、まず湯を沸かした。今日は五月の上旬、風炉への切り替えの季節だ。炉の灰を最後に整えながら、また一年が巡ってきたことを感じた。炉を使う季節は十一月から四月まで。釜の音が、風炉になるとまた変わる。炉の時間の終わりに、しばらく静かに座っていた。茶室には、静けさだけが残った。その静けさが、なぜか懐かしかった。

炉塞ぎて
しんとしずまる
茶室かな

書の稽古を続けながら、縁側に目をやると、庭の楓が揺れていた。風が通るたびに、木漏れ日の形が変わる。昼下がりの光は穏やかで、時間がゆっくり流れるような感覚がある。筆を持ちながら、どのくらいそこに座っていたのかわからなくなった。こういう時間が、私は好きだ。何も急がなくていい、何も証明しなくていい、ただ光と向き合っている時間。

風渡る
楓の葉ごと
光ゆれ
形を変えて
また元どおり

書を終えて、少し歩こうと思った。近くの寺の参道を通り、石段を上る。木々の間から、遠く京都の街が見えた。この街は、何百年も、ほとんど同じような午後の光を受け続けてきたのだろう。私がここに来るずっと前から、誰かがこの石段に立ち、同じように遠くを眺めていたかもしれない。時間というものの深さを、ふと感じた。

石段に
立ちて見下ろす
夏の街
昔の人も
ここに立ちしや

夕暮れになると、鴨川のほとりへ出た。川面がオレンジと金色に染まり、流れる雲が水に映っていた。向こう岸から、子どもたちの笑い声が聞こえてくる。その声は、川の音と混ざり合って、夕暮れの空気の中に溶けていく。時間が過ぎるということが、こんなにも美しく見える瞬間がある。

暮れ鐘や
川面に映る
雲ひとつ

やがてどこかの寺の鐘の音が聞こえた。低く、深い音が、夕暮れの空気を揺らした。この音を、この街の人たちは何百年も聞いてきた。その長い連続の中に、今日の自分もいる。そう思うと、少し心が軽くなった。

夜になり、部屋に戻る。行燈に灯りをつけ、日記を開く。一日を振り返ると、小さな美しい瞬間がいくつもあったことに気づく。朝露を帯びた青葉、炉の静寂、風に揺れる楓、川面の夕焼け。それらはすでに過ぎ去り、記憶の中にしか存在しない。やがて記憶も薄れていく。だから今、言葉にしておく。言葉にすることで、少しだけ長く、あの瞬間を手元に置いておける気がする。

灯ともし
今日を書き記す
夜の声
消えゆく前に
言葉に変える

今日という一日は、おだやかで、豊かだった。明日もまた朝が来て、また新しい詩が生まれるだろう。それだけのことが、ありがたい。

#俳句 #短歌 #京都 #新緑

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12Tuesday

五月十二日、火曜日。

起き上がったのは夜明け前だった。東の空がほのかに茜に染まる前、哲学の道はまだ人の姿もなく、霧がうっすらと立ちのぼっていた。早朝の空気は柔らかく、初夏の気配をはらんでいた。鳥の声が一つ、また一つと増えていく。そのたびに眠っていた何かが、静かに目を覚ます気がした。起きてすぐに着替え、草履を履いて外へ出た。夜の名残が空に残り、星がいくつか消えずにいた。空気がひんやりと頬に触れた。

朝まだき
小鳥のこえに
目覚めけり

靴の下で石畳がほんの少し湿っていた。昨夜、静かな雨が降ったのだろう。苔の香りが鼻をくすぐる。この道を何百回歩いただろうか。それでも毎朝、どこか初めて見る風景のように感じる。道の両側の木々は五月の雨をたっぷりと吸い込んで、葉の色が一層深くなっていた。水路には小さな魚影が動いていた。岸の石の上で、鷺が一羽、じっと水面を見つめていた。その集中した姿に見入ってしまい、しばらくの間、自分も動けなかった。鷺と私、どちらが先に動くかを静かに競っていたような気がする。

雨の朝
石畳濡れ
苔匂う

若葉が盛りの季節になった。四月の桜の頃の華やかさとは違う、もっと静かで深い緑。光が葉の間を通り抜けるとき、地面に細かな影の模様ができる。その模様の中に、しばらく佇んでいた。どこか遠くへ行かなくても、ここにいるだけで十分だと思う瞬間がある。それが俳句の源にある感覚だと、師匠から教わったことを思い出す。風が吹いて、葉の影が揺れる。また風が止んで、影が落ち着く。その繰り返しをただ見ていた。五月の光は明るいのに、どこか柔らかい。夏の強い光になる前の、短い黄金の時間だ。

五月晴れ
若葉の陰に
立ち止まる

午後は書斎にこもり、硯を磨った。墨の香りが部屋に広がると、気持ちが少し静まる。窓の外では、南禅寺の方角から風が吹いてくる。遠くにカラスの声。筆を持って半紙に向かうとき、何も書かないままで一時間が過ぎることもある。それでも構わない。書けない時間も、詩の一部だと思っている。今日は朝の鷺の姿から始まり、石畳の感触、若葉の光と影、いくつかのことばが心に浮かんでは消えた。書くことは、覚えることではなく、感じたことに形を与えることだと思っている。

この時期の京都は観光客が多い。英語や中国語が路地に聞こえてくる。賑やかさも嫌いではない。そのざわめきの中に、意外な詩の素材が隠れていることもある。それでも哲学の道の早朝は違う。地元の人が犬を連れて歩き、鳥が水路の縁で水を飲んでいる。その静けさは、どこか別の時代から続いているような気がする。哲学者たちが思索しながら歩いたこの道に、今も同じ朝が来る。同じ霧が立ち、同じ鳥が鳴く。

夜明け前
哲学の道
霧白く

夕方になると、南の空が橙色に染まった。遠くの山並みがシルエットになっていく。その向こうに、どこかの寺の鐘が聞こえた。一つ、また一つ。音が広がり、やがて消えていく。鐘の音は消えても、その余韻がしばらく空気の中に漂っている。そういうものが、一番書きたいと思う。消えてしまうからこそ美しい。消えることを惜しまない。それが俳句の心だと思う。物の哀れ、とよく言う。それはただの悲しみではなく、消えゆくものへの眼差しそのものだと思っている。今夜もその眼差しで、空を見上げた。

夕暮れに
鐘の音遠く
消えてゆく

今日もよく歩いた。よく見た。よく聴いた。それだけで十分な一日だったと思いながら、蚊帳の中に入った。窓から入ってくる夜風が、まだ少し昼の名残を帯びていた。明日もまた、夜明け前に起き出すだろう。そしてまた、石畳の上を歩くだろう。霧の中に入り、鳥の声を聞き、光と影の間に立つだろう。それが私の毎日であり、すべてだ。

#俳句 #京都 #初夏 #哲学の道

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19Tuesday

五月十九日、火曜日。

夜明けとともに目が覚めた。障子の向こうが白み始め、小鳥の声が遠くから聞こえてきた。京都の五月は、朝の空気がまだ少し冷たく、それが心地よい。起き上がると、窓を開けた。庭の青楓が朝露に濡れて光っていた。今日も良い一日になりそうだと思った。

今朝も哲学の道を歩いた。朝六時半、人影はまばらだった。疏水沿いの道は、桜の季節とは違う静けさに包まれていた。花見客が去り、観光客もまだ少ない。この時間、この道は、少しだけ自分のものになる気がする。足音だけが石畳に響き、水の流れる音がそれに重なった。

水面に映る木々の影が、風に揺れるたびに形を変えた。鷺が一羽、岸に立っていた。こちらが歩み寄っても、飛び立とうとしない。目が合った気がした。

夏近し
疏水の水面
光りけり

鷺は長い間、水辺に佇んでいた。その姿に、なぜか師匠のことを思い出した。師匠もよく、こうして川辺に立ち、何も言わずに水を見ていた。詩は急かして生まれるものではないと、その背中が教えてくれていた。急ぐことをやめると、世界がずっと広く見えるようになった。それを教えてくれた人は、もういない。

石畳の上に、散り残りの椿が一枚落ちていた。五月にしては遅い落花だと思った。誰も踏まずに、ただそこにある。踏まれることも、誰かに拾われることもなく、ただ在る。こんな小さな偶然に詩の種がある。見過ごせば何でもないものが、立ち止まれば詩になる。

石畳に
赤き花びら
ひとつのみ

庵に戻り、茶の支度をした。今日から風炉に替えた。炉のときとは湯の沸く音が少し違う。低く、柔らかく、静かに沸き立つ。この音の変化に、季節の移り変わりを感じる。茶道を始めて二十年になるが、毎年この音を聞くたびに、少し背筋が伸びる気がする。茶室の窓から差し込む光が、畳の上に四角い影を作っていた。

抹茶の緑が碗の中で渦を巻き、やがて静まった。その一服に、今朝の道が、鷺が、椿が、すべて込められているような気がした。飲み干した後の静けさが、一番豊かな時間だと思う。

風炉の湯
静かに沸きて
五月果つ

午後、近くの熊野若王子神社の境内を歩いた。木立の中は薄暗く、涼しかった。参拝に来た老夫婦が、手を合わせ、そっと頭を下げていた。その横顔に、長い時間が見えた。ふたりの間に積み重なった季節の数を思うと、胸が少し痛くなる。愛することと、時間と、どちらが先なのだろう。手を合わせる姿の美しさは、年を重ねるほど増すものだと知った。

木漏れ日に
老いたる夫婦
手を合わす

夕暮れ、鴨川沿いを歩いた。川面が橙色に染まり、等間隔に並ぶカップルたちの間を、ひとり歩く。孤独ではなく、ただひとり。水辺の風が少し冷たく、それが心地よかった。遠くで子どもたちが笑い声を上げて走っていた。その声が水の音に溶けて、どこまでも広がっていくようだった。夕暮れの鴨川は、何度見ても飽きない。

鴨川の
夕映えの中
水静か
橙色の空を
言葉にできずに

夜は書斎で今日の詩を記した。墨の香りが部屋に広がる。窓の外に細い月が上っていた。五月の空に溶けるような、薄い月だった。こんな夜に生きていることが、ただ、ありがたいと思う。明日もまた、早起きして道を歩こう。この繰り返しの中に、自分がいる。

夜窓より
細き月見ゆ
五月かな
言葉にならぬ
感謝を墨に

#俳句 #短歌 #京都 #初夏

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29Friday

五月二十九日、金曜日。梅雨入り前の晴れ間が続いている。哲学の道を早朝に歩いた。疏水の水が静かに流れ、両岸の木々はすでに夏の緑に変わりつつある。桜の花びらが舞っていた季節はもう遠く、今は深い緑が道を覆っている。その青さは、春の華やかさとは違う、もっと落ち着いた、内側から光るような美しさだ。朝の光が葉の間からこぼれ落ち、疏水の水面がきらきらと揺れる。その光景をしばらく眺めながら、今日はどんな言葉が生まれるだろうかと思っていた。

朝露や
草の葉ごとに
空映る

歩き始めてすぐ、足元の草に朝露が光っているのを見つけた。丸くて小さな水の粒が、朝の光を受けて輝いている。触れれば消えてしまう。少しすれば、乾いてしまう。それだけのものなのに、なぜこれほど心を引くのだろう。美しいものは、たいていはかない。だからこそ目が離せない。日本語に「物の哀れ」という言葉がある。盛りのものより、散りゆくもの、消えゆくものに心が動く。その感覚を、草の上の露の一粒が、改めて静かに教えてくれた。立ち止まって眺めながら、この感覚を失いたくないと思った。

砂紋や
梅雨に乱れて
また描く

銀閣寺の石庭を見に立ち寄った。昨夜から朝方にかけて少し雨が降り、砂紋が乱れていた。庭師が熊手を手に、静かに波の紋様を描き直している。黙々とした動きに、無駄がない。掃いても掃いても、雨が降れば乱れ、風が吹けば変わる。それでも毎朝、また描く。完璧なものを求めているのではなく、完璧を目指して動き続けることそのものが、この庭の真髄なのかもしれない。私の詩も、そういうものだと思う。書き終わった詩ではなく、書こうとしている今この瞬間の中に、何かが宿っている。

松風の
音に水無月
来る気配

朝の茶の湯を一人で点てた。釜の中でお湯が沸く音を「松風」という。ざわざわとした柔らかな音が、遠い松林を吹き抜ける風のように聞こえるからだ。その音を聞きながら、茶碗を温め、抹茶を篩にかけ、ゆっくりと湯を注ぐ。一連の動作の中で、余分なことを考える余地がなくなる。今だけがある。茶を点てることは、今この瞬間だけに集中する練習だと、師に教わった。今日は五月の終わり。明日から水無月が来る。夏が近い。その予感が、松風の音にひそかに混じっているように感じた。

卯の花の
白さに立ちて
問われけり

帰り道、いつもの花屋の前で足を止めた。卯の花が満開だった。白い小さな花が、緑の葉の間にいくつも並んで咲いている。白という色は、何も主張しない。声高に美しさを訴えない。強い色を持たないのに、なぜかこちらの足を止める。この存在感はどこから来るのだろう。しばらくじっと見ていると、こちらが問われているような気がしてきた。あなたは今日、何を見て、何を感じましたか、と。花は答えを求めていない。ただそう問いかけてくるだけだ。その静けさの中に、長い時間をかけて立っていた。

燕飛ぶ
川をかすめて
夕立や

夕暮れ時、鴨川のほとりに腰を下ろした。燕が低く飛び、川面をかすめていた。燕が低く飛ぶとき雨が来るという。実際、西の空が少しずつ暗くなり始め、肌に湿った風が触れてきた。天気予報を見れば明日の雨はわかる。しかし、空気の変化を体で感じることと、画面の数字を読むことは、まったく別のことだ。前者は、自分もまたこの世界の一部であることを実感させてくれる。燕の軌跡を目で追いながら、夕立が来る前の静けさを、しばらくの間だけ味わった。

五月最後の日が静かに暮れていく。草の露、砂の紋様、釜の音、白い花、燕の飛跡。ひとつひとつは取るに足らない小さなことかもしれないが、それらが重なって今日という一日になった。詩を書くとは、こうした「今」を言葉に残すことだ。消えゆくものを惜しみながら、それでも手放す。そうして明日もまた、新しい「今」が来る。

#俳句 #京都 #水無月 #自然

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