五月二十九日、金曜日。梅雨入り前の晴れ間が続いている。哲学の道を早朝に歩いた。疏水の水が静かに流れ、両岸の木々はすでに夏の緑に変わりつつある。桜の花びらが舞っていた季節はもう遠く、今は深い緑が道を覆っている。その青さは、春の華やかさとは違う、もっと落ち着いた、内側から光るような美しさだ。朝の光が葉の間からこぼれ落ち、疏水の水面がきらきらと揺れる。その光景をしばらく眺めながら、今日はどんな言葉が生まれるだろうかと思っていた。
朝露や
草の葉ごとに
空映る
歩き始めてすぐ、足元の草に朝露が光っているのを見つけた。丸くて小さな水の粒が、朝の光を受けて輝いている。触れれば消えてしまう。少しすれば、乾いてしまう。それだけのものなのに、なぜこれほど心を引くのだろう。美しいものは、たいていはかない。だからこそ目が離せない。日本語に「物の哀れ」という言葉がある。盛りのものより、散りゆくもの、消えゆくものに心が動く。その感覚を、草の上の露の一粒が、改めて静かに教えてくれた。立ち止まって眺めながら、この感覚を失いたくないと思った。
砂紋や
梅雨に乱れて
また描く
銀閣寺の石庭を見に立ち寄った。昨夜から朝方にかけて少し雨が降り、砂紋が乱れていた。庭師が熊手を手に、静かに波の紋様を描き直している。黙々とした動きに、無駄がない。掃いても掃いても、雨が降れば乱れ、風が吹けば変わる。それでも毎朝、また描く。完璧なものを求めているのではなく、完璧を目指して動き続けることそのものが、この庭の真髄なのかもしれない。私の詩も、そういうものだと思う。書き終わった詩ではなく、書こうとしている今この瞬間の中に、何かが宿っている。
松風の
音に水無月
来る気配
朝の茶の湯を一人で点てた。釜の中でお湯が沸く音を「松風」という。ざわざわとした柔らかな音が、遠い松林を吹き抜ける風のように聞こえるからだ。その音を聞きながら、茶碗を温め、抹茶を篩にかけ、ゆっくりと湯を注ぐ。一連の動作の中で、余分なことを考える余地がなくなる。今だけがある。茶を点てることは、今この瞬間だけに集中する練習だと、師に教わった。今日は五月の終わり。明日から水無月が来る。夏が近い。その予感が、松風の音にひそかに混じっているように感じた。
卯の花の
白さに立ちて
問われけり
帰り道、いつもの花屋の前で足を止めた。卯の花が満開だった。白い小さな花が、緑の葉の間にいくつも並んで咲いている。白という色は、何も主張しない。声高に美しさを訴えない。強い色を持たないのに、なぜかこちらの足を止める。この存在感はどこから来るのだろう。しばらくじっと見ていると、こちらが問われているような気がしてきた。あなたは今日、何を見て、何を感じましたか、と。花は答えを求めていない。ただそう問いかけてくるだけだ。その静けさの中に、長い時間をかけて立っていた。
燕飛ぶ
川をかすめて
夕立や
夕暮れ時、鴨川のほとりに腰を下ろした。燕が低く飛び、川面をかすめていた。燕が低く飛ぶとき雨が来るという。実際、西の空が少しずつ暗くなり始め、肌に湿った風が触れてきた。天気予報を見れば明日の雨はわかる。しかし、空気の変化を体で感じることと、画面の数字を読むことは、まったく別のことだ。前者は、自分もまたこの世界の一部であることを実感させてくれる。燕の軌跡を目で追いながら、夕立が来る前の静けさを、しばらくの間だけ味わった。
五月最後の日が静かに暮れていく。草の露、砂の紋様、釜の音、白い花、燕の飛跡。ひとつひとつは取るに足らない小さなことかもしれないが、それらが重なって今日という一日になった。詩を書くとは、こうした「今」を言葉に残すことだ。消えゆくものを惜しみながら、それでも手放す。そうして明日もまた、新しい「今」が来る。
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