五月十九日、火曜日。
夜明けとともに目が覚めた。障子の向こうが白み始め、小鳥の声が遠くから聞こえてきた。京都の五月は、朝の空気がまだ少し冷たく、それが心地よい。起き上がると、窓を開けた。庭の青楓が朝露に濡れて光っていた。今日も良い一日になりそうだと思った。
今朝も哲学の道を歩いた。朝六時半、人影はまばらだった。疏水沿いの道は、桜の季節とは違う静けさに包まれていた。花見客が去り、観光客もまだ少ない。この時間、この道は、少しだけ自分のものになる気がする。足音だけが石畳に響き、水の流れる音がそれに重なった。
水面に映る木々の影が、風に揺れるたびに形を変えた。鷺が一羽、岸に立っていた。こちらが歩み寄っても、飛び立とうとしない。目が合った気がした。
夏近し
疏水の水面
光りけり
鷺は長い間、水辺に佇んでいた。その姿に、なぜか師匠のことを思い出した。師匠もよく、こうして川辺に立ち、何も言わずに水を見ていた。詩は急かして生まれるものではないと、その背中が教えてくれていた。急ぐことをやめると、世界がずっと広く見えるようになった。それを教えてくれた人は、もういない。
石畳の上に、散り残りの椿が一枚落ちていた。五月にしては遅い落花だと思った。誰も踏まずに、ただそこにある。踏まれることも、誰かに拾われることもなく、ただ在る。こんな小さな偶然に詩の種がある。見過ごせば何でもないものが、立ち止まれば詩になる。
石畳に
赤き花びら
ひとつのみ
庵に戻り、茶の支度をした。今日から風炉に替えた。炉のときとは湯の沸く音が少し違う。低く、柔らかく、静かに沸き立つ。この音の変化に、季節の移り変わりを感じる。茶道を始めて二十年になるが、毎年この音を聞くたびに、少し背筋が伸びる気がする。茶室の窓から差し込む光が、畳の上に四角い影を作っていた。
抹茶の緑が碗の中で渦を巻き、やがて静まった。その一服に、今朝の道が、鷺が、椿が、すべて込められているような気がした。飲み干した後の静けさが、一番豊かな時間だと思う。
風炉の湯
静かに沸きて
五月果つ
午後、近くの熊野若王子神社の境内を歩いた。木立の中は薄暗く、涼しかった。参拝に来た老夫婦が、手を合わせ、そっと頭を下げていた。その横顔に、長い時間が見えた。ふたりの間に積み重なった季節の数を思うと、胸が少し痛くなる。愛することと、時間と、どちらが先なのだろう。手を合わせる姿の美しさは、年を重ねるほど増すものだと知った。
木漏れ日に
老いたる夫婦
手を合わす
夕暮れ、鴨川沿いを歩いた。川面が橙色に染まり、等間隔に並ぶカップルたちの間を、ひとり歩く。孤独ではなく、ただひとり。水辺の風が少し冷たく、それが心地よかった。遠くで子どもたちが笑い声を上げて走っていた。その声が水の音に溶けて、どこまでも広がっていくようだった。夕暮れの鴨川は、何度見ても飽きない。
鴨川の
夕映えの中
水静か
橙色の空を
言葉にできずに
夜は書斎で今日の詩を記した。墨の香りが部屋に広がる。窓の外に細い月が上っていた。五月の空に溶けるような、薄い月だった。こんな夜に生きていることが、ただ、ありがたいと思う。明日もまた、早起きして道を歩こう。この繰り返しの中に、自分がいる。
夜窓より
細き月見ゆ
五月かな
言葉にならぬ
感謝を墨に
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