朝、台所に立つと窓から差し込む光が少しやわらかくなっていることに気づいた。三月の光は二月とは違う。空気の冷たさは残っているけれど、その中に春の予感が混ざっている。今日は桃の節句。ひな祭りのちらし寿司を作ろうと、昨夜から準備していた具材を冷蔵庫から取り出した。
錦糸卵を作るとき、母がいつも言っていた言葉を思い出す。「薄く、均一に。急がないこと」。フライパンに薄く油を引いて、溶き卵を流し込む。ジュワッという音と同時に広がる卵の香ばしい香り。火加減を弱めて、表面が乾くまで待つ。この待つ時間が大切なのだと、何度も失敗してようやく分かった。去年は焦って裏返そうとして破れてしまった。今年は落ち着いて、菜箸でそっと端を持ち上げる。きれいに剥がれた。
酢飯を作りながら、合わせ酢の香りが鼻をくすぐる。米酢の酸っぱさと砂糖の甘さ、塩のバランス。祖母は「酢飯は冷ましながら切るように混ぜる」と教えてくれた。しゃもじで大きく切るように混ぜると、一粒一粒が輝き始める。ご飯が人肌くらいになったところで、具材を散らしていく。
- 茹でた海老(背わたを取って、薄紅色に)
- きゅうりの千切り(塩もみして水気を絞る)
- 桜でんぶ(ほんのり甘い、春の色)
- 細く切った錦糸卵
- 刻んだ三つ葉(香りのアクセント)
最後に、薄切りにしたレンコンの甘酢漬けを飾る。レンコンの穴から未来が見えるという言い伝えがあると、母が話してくれたことがある。輪切りにすると花のような模様になって、それだけで食卓が華やぐ。
スーパーで買い物をしているとき、隣にいた女の子が母親に「ひな祭りだからピンクのお寿司食べたい」と言っていた。母親は笑いながら「家で作ろうね」と答えていた。私も子どもの頃、桜でんぶの鮮やかなピンク色が好きで、ちらし寿司の上にたくさん散らしてもらっていた。あの甘さと、ふわふわした食感。大人になった今でも、あの味を思い出すと少しだけ胸が温かくなる。
盛り付けが終わったちらし寿司を見る。色とりどりの具材が、まるで春の野原みたいに広がっている。箸でひとくち取って口に運ぶ。酢飯のほどよい酸味、海老のぷりっとした食感、きゅうりのシャキシャキ感、桜でんぶのほんのりとした甘さ。それぞれが主張しすぎず、でもしっかりと存在していて、口の中で調和する。三つ葉の香りが鼻に抜けて、後味をさわやかにしてくれる。
今年は菱餅は買わなかったけれど、白酒の代わりに甘酒を温めた。生姜を少しすりおろして入れると、体の芯から温まる。窓の外では梅の花がほころび始めている。季節の変わり目に、こうして丁寧に食事を作る時間が、私にとっては小さな儀式のようなものなのかもしれない。
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