朝、まだ空気がひんやりとしている時間に近所の市場へ出かけた。三月も半ばを過ぎると、野菜売り場の色合いがぐっと明るくなる。淡い緑色の春キャベツ、細長いアスパラガス、そして今朝の目当てだった筍が、木箱の中で土のついたまま並んでいた。掘りたてという言葉に弱い私は、迷わず一本手に取った。ずっしりとした重みと、根元についた赤い斑点が新鮮さの証だ。
帰り道、八百屋のおばさんに「ワカメも一緒にどう?」と声をかけられた。若竹煮を作るつもりだったから、渡りに船だった。生ワカメは磯の香りが強く、袋越しでも潮の匂いがふわりと鼻をくすぐる。「茹ですぎないようにね」とおばさんが付け加えたのを、頭の隅にメモする。
午後、キッチンで筍の下処理を始めた。米ぬかと鷹の爪を入れた鍋で、ゆっくり時間をかけて茹でる。湯気が立ち上るにつれ、あの独特の青い香りが部屋中に広がっていく。この匂いを嗅ぐと、いつも祖母の台所を思い出す。祖母は毎年この時期になると、裏山で採ってきた筍を大鍋で茹で、近所におすそ分けしていた。「灰汁抜きは気長にね」と、祖母がよく言っていた言葉が耳に蘇る。
茹で上がった筍を水にさらし、冷めるのを待つ間に出汁の準備をした。昆布と鰹節で取った一番出汁に、薄口醤油と味醂を加える。ここで少し失敗した。最初、醤油を入れすぎてしまい、味見をしたら思ったより濃かった。慌てて出汁を足し、味醂も少し追加してバランスを取り直す。焦ると失敗する、いつものパターンだと苦笑いしながら、もう一度味を確かめた。
筍を食べやすい大きさに切り、出汁の中に入れて弱火で煮含める。途中でワカメも加えた。おばさんの忠告通り、さっと火を通すだけ。鮮やかな緑色が、淡い黄色の筍と美しいコントラストを作る。蓋を開けるたびに立ち上る湯気と香りが、春そのものだった。
夕方、ようやく味が染みた頃合いを見計らって火を止めた。器に盛り付けると、木の芽を一枚添える。一口食べれば、筍のシャキシャキとした食感と、ほんのり甘い出汁の味わい。ワカメの磯の風味が口の中でふわりと広がり、木の芽の爽やかな香りが鼻に抜ける。噛むたびに筍の繊維から出汁が滲み出し、最後に残るのは優しい余韻だけだ。
窓の外では、まだ明るさの残る空に、桜の枝がシルエットを作っていた。来週あたりには花も咲くだろう。春の訪れを、舌で、鼻で、目で感じる一日だった。
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