駅前の小さな蕎麦屋「麦秋」で、限定十食の寒晒し蕎麦に出会った。1月の冷たい水で晒した蕎麦粉は、雑味が抜けて驚くほど繊細な香りを纏う。店主がゆっくりと運んできた盛り蕎麦は、淡い翡翠色をしていた。
箸で持ち上げると、ツルッと滑らかに持ち上がる。一本一本が均一に細く、光を受けて艶やかに輝いている。鼻を近づけると、ほのかに蕎麦の実の甘い香りが立ち上ってくる。普段の蕎麦とは明らかに違う、優しくて上品な香りだ。
一口目は何もつけずに。口に含んだ瞬間、シュルシュルッと喉に滑り込んでいく。噛むと、プツンと小気味よい歯切れ。そして口の中に広がる蕎麦の甘み。これが寒晒しの醍醐味なのだと、思わず目を閉じた。
二口目から、店主特製の返しで仕立てた蕎麦つゆをほんの少しだけつける。チュルチュルッと勢いよく啜ると、蕎麦の甘みとつゆの旨みが絶妙に絡み合う。つゆが濃すぎず、蕎麦の風味を消さない。計算され尽くした塩梅だ。
薬味のわさびは、伊豆天城産の本わさび。鮫皮おろしで摺りたて、ツーンとした香りが鼻腔をくすぐる。これを蕎麦に少しのせて口に運ぶと、わさびの清涼感が蕎麦の甘みを引き立てる。三者が渾然一体となって、口の中で小さな交響曲を奏でる。
蕎麦湯も格別だった。とろりと濃厚で、湯呑みの底が見えないほど白く濁っている。残ったつゆに注ぐと、トロトロとした食感に変わる。一口飲むと、蕎麦の甘みと香ばしさがじんわりと体に染み渡る。冬の寒さで冷えた体が、内側からゆっくりと温まっていく。
「寒晒しは手間がかかるんですよ」と店主が言った。真冬の冷たい水に蕎麦粉を何日も晒し、アクや渋みを抜く。機械化できない、職人の根気と技が必要な仕事だ。だからこそ、この透明感のある味わいが生まれる。
カウンター越しに、店主が次の注文の蕎麦を打つ姿が見える。トントントンとリズミカルな包丁の音。シャッ、シャッと蕎麦が切られていく音が心地よい。店内には蕎麦を茹でる湯気と、仄かな蕎麦粉の香りが漂っている。
冬にしか味わえない贅沢。寒晒し蕎麦は、日本の食文化が大切にしてきた「旬」と「手仕事」の結晶だ。一杯の蕎麦に、四季の移ろいと職人の誇りが詰まっている。
会計を済ませて店を出ると、冬の冷たい風が頬を撫でた。でも不思議と寒さは感じない。体の芯から温まった心地よさが、まだ残っている。また来年の冬、必ずここに戻ってこようと心に決めた。
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