冬の朝、白い息を吐きながら辿り着いた路地裏の小さな蕎麦屋。暖簾をくぐると、出汁の香りが一気に鼻腔を満たす。昆布と鰹の深い旨味が、冷えた体を内側から温めるように迎えてくれた。
カウンター越しに見える主人の手元では、真っ白な蕎麦粉が水を含んで徐々に生地へと変わっていく。その手つきは静かで、しかし迷いがない。何十年もこの動作を繰り返してきた職人の所作だけが持つリズムがそこにあった。
運ばれてきた「もりそば」は、驚くほどシンプルだった。竹ざるの上に整然と並んだ蕎麦は、細すぎず太すぎず、艶やかな灰色がかった緑色。箸で持ち上げると、しなやかに垂れながらも、適度な張りを保っている。
一口啜ると、シャキッとした歯ごたえの後に、ツルツルと喉を滑り落ちていく。噛むほどに蕎麦の実の香ばしさが口の中に広がり、最後にほのかな甘みが残る。これが本当の蕎麦の味なのだと実感させられる。
つけ汁は濃いめに見えるが、味は意外なほど上品。鰹の風味が前面に出すぎず、出汁全体としての調和を大切にしている。蕎麦湯で割ると、とろみのある液体が体の芯まで染み渡り、寒さで固くなっていた肩の力がふっと抜けた。
隣の客が注文していた「鴨南蛮」にも目が行く。鴨肉はふっくらと厚みがあり、脂の甘みが湯気と共に立ち上っている。葱はしゃきしゃきと音を立てそうなほど新鮮で、鴨の脂と絡んで琥珀色に輝いていた。
主人に声をかけると、「蕎麦粉は毎朝石臼で挽いているんです」と教えてくれた。だからあの香りなのかと納得する。機械では出せない、粉の粒子が不揃いだからこその食感と風味。手間を惜しまない姿勢が、一杯の蕎麦に凝縮されていた。
食べ終わって店を出る頃には、体も心も温かくなっていた。冬の寒さが厳しくなるほど、こういう店の存在が愛おしくなる。また来週の朝、この暖簾をくぐりたいと思わせる、そんな蕎麦だった。
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