冷たい雨が降る師走の夕暮れ、私は神田の路地裏にある古い定食屋の扉を押し開けた。すりガラスの向こうからは、湯気の立つ音と醤油の焦げる香りが漂ってくる。カウンターの奥では、店主が静かに大根を煮ている。この店の「おでん定食」は、冬になると無性に恋しくなる味だ。
まず目に飛び込んでくるのは、土鍋にぎっしりと詰まったおでんの数々。琥珀色の出汁が、湯気とともに立ち上がる。大根は中心まで透き通り、まるで宝石のようだ。厚揚げは表面がきつね色に染まり、出汁をたっぷりと吸い込んでいる。練り物たちは、それぞれが主張しながらも調和している。
箸を伸ばし、まずは大根を取る。持ち上げた瞬間、ずしりとした重さが伝わってくる。これは何時間も煮込まれた証拠だ。一口かじると、ホロホロと崩れる柔らかさと同時に、染み渡った出汁が口いっぱいに広がる。昆布と鰹の旨味、そして微かに感じる生姜の風味。大根本来の甘みが、出汁と一体となって舌の上で踊る。
次に厚揚げ。外側はカリッとしているのに、中はジュワ〜っと出汁が溢れ出す。この対比が堪らない。豆腐の香ばしさと出汁の深みが絡み合い、思わず目を閉じてしまう。
練り物も素晴らしい。ちくわはモッチリとした食感で、噛むたびに魚の旨味が広がる。はんぺんはフワフワで、まるで雲を食べているかのような軽やかさ。それでいて、しっかりと出汁を抱え込んでいる。
添えられた柚子胡椒を少しつけると、味わいがさらに深まる。爽やかな柚子の香りと、ピリッとした辛みが、出汁の甘さを引き立てる。これもまた、冬の贅沢だ。
白米も忘れてはいけない。ふっくらと炊かれた米は、ツヤツヤと輝いている。おでんの出汁を少しかけて食べると、これがまた絶品。米の甘みと出汁の旨味が、胃に染み渡る。
この店のおでんは、派手ではない。高級食材も使っていない。けれど、時間をかけて丁寧に作られた一品は、心の奥底まで温めてくれる。雨の日も、寒い日も、疲れた日も。変わらずこの味がここにある。それがどれほど幸せなことか。
箸を置き、最後の一口を味わう。体の芯から温まり、ふと、子どもの頃に母が作ってくれたおでんを思い出す。具材は違っても、あの時と同じ温もりがここにある。
食は、ただ空腹を満たすものではない。それは記憶であり、繋がりであり、安心だ。この店のおでんは、まさにそれを体現している。また寒い日が来たら、私はこの扉を押し開けるだろう。
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