冬至を過ぎて、街は年末の慌ただしさに包まれている。そんな中、私は小さな蕎麦屋の暖簾をくぐった。創業八十年という老舗は、時代の波に揺れることなく、変わらぬ味を守り続けている。
鴨せいろを注文した。運ばれてきた蕎麦は、深い翡翠色をしている。石臼挽きの十割蕎麦だという。まずは一本、何もつけずに口に運ぶ。ツルッとした喉越しの中に、ほのかな蕎麦の香りが鼻腔を抜けていく。そして噛みしめると、プツンと切れる瞬間に蕎麦の甘みが広がる。これぞ蕎麦本来の味わいだ。
鴨汁の湯気が立ち上る。脂の浮いた表面がきらきらと光っている。鴨肉は、厚めに切られた胸肉が五切れほど。箸で持ち上げると、しっとりとした重みを感じる。一口頬張ると、ジュワッと肉汁が溢れ出す。火の入れ方が絶妙だ。中心部はほんのりピンク色で、柔らかくもしっかりとした歯応えがある。鴨特有の野性味は控えめで、上品な旨味だけが残る。
つゆは濃いめの醤油ベースだが、決してしょっぱくない。鴨の脂がコクを加え、まろやかな味わいに仕上がっている。九条ネギの甘みと香りが、鴨の風味を引き立てている。このつゆに蕎麦をさっとくぐらせて啜る。ズズッという音とともに、蕎麦と鴨汁が一体となって口の中で踊る。蕎麦の歯切れの良さと、鴨汁の濃厚さが見事に調和している。
テーブルに置かれた薬味にも心配りが感じられる。山葵は本わさびを使用している。すりおろしたばかりの山葵は、ツーンとした辛みではなく、爽やかな香りと甘みを持っている。蕎麦湯を注いでもらい、残った鴨汁で割る。濃厚だったつゆが優しい味わいに変わり、体の芯から温まる。
この店の主人は三代目だという。父から受け継いだ技術を、さらに磨き上げてきた。「蕎麦は季節によって変わります。粉の状態、気温、湿度、すべてが違う。毎日が勉強です」と静かに語る姿に、職人の矜持を感じた。
年の瀬に味わう一杯の蕎麦。それは単なる食事ではなく、時間をかけて育まれた伝統との出会いだった。喧騒から離れ、丁寧に作られた料理と向き合う時間。これこそが、本当の贅沢なのかもしれない。
店を出ると、冬の冷たい空気が頬を撫でる。満たされた胃と心地よい満足感を抱えながら、私は次の出会いを夢見て、街を歩き続ける。
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