荻窪の南口から出るつもりが、なぜか北口に立っていた。改札を抜けた瞬間に「あ、逆だ」と気づいたが、もう人の流れに乗ってしまっていて、引き返すタイミングを失った。仕方ないので北口から南下することにした。地図を確認したら、そのほうがむしろ善福寺川に近かったので、結果的にはよかったかもしれない。たぶん。地図の向きが合っているかどうかは、最後まで若干自信がなかった。
川沿いの遊歩道に入ると、祝日の午前中らしく親子連れと犬と自転車が入り乱れていた。鯉のぼりを出している家が一軒あって、小さいほうが完全に力尽きてぐったりしていた。風がほとんどない日だったので、大きいほうも半分やる気をなくしたように、ほぼ垂直に垂れ下がっていた。4月の末だからそろそろ片付ける時期のはずで、もしかしたら今日が最終出勤日だったのかもしれない。お疲れさまでした、と思いながら通り過ぎた。
しばらく歩くと、支流らしき細い水路の跡が住宅の間を走っているのに気がついた。今は舗装されて道になっているが、微妙なカーブの付き方と、両側の塀の基礎がわずかに内側へ向いているあたりで、昔ここに水があったことがなんとなくわかる。暗渠というやつだ。名前もない。地図にも載っていない。でも確かにそこにあった跡だけが残っている。こういう痕跡を見つけると、なぜか少しほっとする。街が何かをまだ覚えているみたいで。小さいノートにカーブの形だけ走り書きしたが、帰って見返したら何の形かまったくわからなかった。
西荻窪の手前で足が重くなってきたので、商店街の外れにある喫茶店に入った。入り口の木製の看板に「珈琲」と縦書きで書いてあって、文字全体が少し右に傾いていた。オーナーが筆で書いたのか、それとも最初からそういうデザインなのかわからないが、傾き加減が「誰も直そうと思わなかった」感じで、むしろ落ち着く。長く続いてきた店というのは、細かいところが少しずつ歪んでいるものだと思う。
アイスコーヒーを頼んだ。しっかり苦くて、後から静かな甘みが来る、ちゃんとした喫茶店の味だった。グラスについた水滴が、テーブルのビニールのマットに丸い跡をつけた。隣のテーブルの老夫婦が、競馬新聞を広げながら無言でそれぞれ読んでいた。ときどき片方が小さく声を上げて、もう片方が「ふーん」と言う。それ以外は静かだった。こういう静けさが、歩いた後にちょうどいい。
西荻窪の改札が見えてきたとき、歩いた距離は約8キロだった。もう少し短いつもりでいたが、途中で路地に入ったり、暗渠を探してうろうろしたりしていたので、そのぶんが積み重なったのだと思う。ノートには「北口から出た(逆)」「鯉のぼり、やる気なし」「傾いた珈琲の字、好き」とだけ書いてあった。帰りの中央線の車内で見返したら、電車の揺れで自分の字も少し傾いていた。
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