今日は亀戸から曳舟まで、東武亀戸線の線路に沿って歩くつもりだった。「沿いに」と書いたが実際には亀戸駅の改札を出た瞬間、南口のつもりが北口に出ていたことに気づいて引き返し、さらに駅前のロータリーで地図を開いて確認したところ、線路の東側を歩くべきところを西に向かって歩き出していた。亀戸を出発してから五分も経たないうちに二回間違えたことになる。方向感覚というものが、どうも自分には標準装備されていないらしい。
気を取り直して線路の南側を歩き始めた。古い住宅と小さな工場が入り交じった一帯で、どこかから断続的に金属を叩く音が聞こえてきた。細い路地を進んでいくと、水色のシャッターが降りた鉄工所の前で足が止まった。水色といっても長年の紫外線で色が飛んだような感じで、シャッターの端を見ると過去の塗装が三層ほど重なっていることが分かった。一番外の水色の下に白、その下にまた別の何かがある。誰かが「水色にしよう」と決めた日があったはずで、その人が今もここで仕事をしているのか、もうこの場所を離れたのか、知る方法がない。べつに知らなくていいのだけれど、そのまま通り過ぎるのも少し惜しい気がして、しばらくそこに立っていた。町工場のシャッターを眺めながら立っている人間は、傍から見るとどういう存在に映るのだろうか。
北十間川を渡ったあたりで、気がつけば正午をとっくに過ぎていた。商店街の入り口のアーチをくぐると、思っていたより短くてシャッターが目立つ通りが続いた。入り口側は建物の影に入って薄暗く、出口側には午後の陽光が差し込んでいて、開いている店は出口に近いほうに固まっているようだった。惣菜屋と靴修理の店と、名前を見ても業種が分からない店が一軒あった。その前で少し立ち止まったが、入る勇気はなかった。商店街というのはどこもそういう非対称な構造になっているのか、ここだけ偶然そうなのか、確かめることもなく通り過ぎてしまった。
空腹を自覚したのは商店街を抜けたあとで、少し歩いたところに昔ながらの喫茶店があった。外観はガラス張りで、内側に水色のレースカーテンがかかっていた。今日は水色に縁がある日らしいと思いながら引き戸を開けると、カウンターが六席と窓際にテーブルが二つ、それだけのこぢんまりした店だった。コーヒーを頼んだら、ネルドリップらしい深い琥珀色のカップが静かに置かれた。最初の一口は苦みがはっきりしていて、飲み込んだあとにほんの少しだけ甘い余韻が残った。窓際では競馬新聞を広げたおじさんが二人、ときどき小声で何かを確かめ合っていた。勝ったのか負けたのか、表情からは読めなかった。コーヒーを飲み終わっても席を立つ理由がなくて、もう一杯頼もうかと思ったけれど、財布と相談して出ることにした。
曳舟駅に着いたのは夕方前で、足の裏がそろそろ不満を口にし始めていた。改札に向かいながら交通系カードを定期入れから出そうとしたら、定期入れごと落とした。拾ってくれた人に礼を言うと、その人は無言で軽く会釈してエスカレーターへ消えた。東京の親切は静かだ。ホームで電車を待ちながら、今日ノートに何を書くかをぼんやり考えた。
帰りの電車でノートを開いたら、「水色シャッター三層」と「ネルドリップ苦みあと甘み」の二行だけ書いてあった。十キロ弱の午後がその短い二行に収まっているのが少し可笑しくて、でもたぶんそれで十分なのだと思う。来週はどこを歩こうか、と考えているうちに乗り過ごして、一駅先で降りた。それも悪くない一日の終わり方だ。
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