朝の通勤路をいつもと逆方向に歩いてみた。たったそれだけで、見慣れた街が妙に新鮮に見える。普段は背中を向けている古い煙草屋の軒先に、手書きの「本日休業」の札が掛かっていた。あの店、いつも開いてるイメージだったのに、店主にも休みがあるのか。当たり前のことに今さら気づいて、少し笑ってしまった。
角を曲がると、カフェの前で若い店員が「いらっしゃいませー」と声を張り上げていた。でも誰も入らない。彼は五分おきに同じセリフを繰り返している。その健気さに胸を打たれて、帰りに寄ろうと決めた。結局忘れて素通りしたのだけれど。
橋の欄干に腰掛けて、川面を眺めた。水の匂いが春めいている。冬の間はどこか鉄っぽい匂いがしていたのに、今日はかすかに土と草の香りが混じっていた。川沿いの桜はまだ蕾だが、枝先がほんの少し赤みを帯びている。「あと二週間かな」と隣のベンチのおじさんが独り言を言っていて、僕も同じことを考えていたから、思わず頷いてしまった。
駅前の本屋で旅行雑誌を立ち読みした。北欧特集。フィンランドのヘルシンキ、ストックホルムの旧市街、オスロのフィヨルド。どれも行ったことがない。いつか行けるだろうか。それとも、まだ知らない東京の路地を歩き続ける方が、僕には向いているのかもしれない。
帰り道、さっきのカフェの前を通ったら、もう閉まっていた。店員の声も聞こえない。明日また通りかかったら、今度こそ入ってみようと思う。逆方向に歩くだけで、こんなにも発見がある。明日はどの道を選ぼうか。
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