朝、いつもと違う駅で降りてみた。何となく地図を眺めていたら「神田川沿い」という文字が目に入って、突然歩いてみたくなったのだ。駅を出ると、予想より冷たい風が頬を撫でる。ああ、まだ3月上旬だったと思い出す。コートのボタンを一つ多く留めて、川沿いの道を探す。
商店街を抜けると、急に視界が開けた。川面がキラキラと光っている。橋のたもとで、小さな猫が石段に座ってこちらを見ていた。近づくと逃げるかと思ったけれど、じっと動かない。「おはよう」と小声で話しかけると、猫はゆっくりと瞬きを返した。それだけで、何だか許可をもらえた気がした。スマホを取り出して一枚写真を撮ろうとしたら、その瞬間、猫はすたすたと路地の奥へ消えていった。タイミングというのは、いつも向こうが握っているものだ。
川沿いを歩き始めると、桜の木が並んでいることに気づいた。まだ蕾は硬そうだけれど、枝先には小さな膨らみがある。あと二週間もすれば、この道は桜のトンネルになるんだろう。今はまだ、期待と準備の時間。隣を通りすぎた老夫婦が「もうすぐだねえ」と言いながら空を見上げていた。同じことを考えている人がいると分かると、街がもう少し優しく感じられる。
ベンチに座って持ってきたコーヒーを飲んでいると、ランニング中の人が次々と通り過ぎていく。ある人はイヤホンをつけて、ある人は犬と一緒に、ある人は息を整えながら。みんな同じ川沿いの道を走っているのに、それぞれの景色は違うんだろうな、と思う。私はといえば、ただぼんやりと水面を眺めている。鴨が一羽、流れに逆らって泳いでいた。けっこう必死に見えるのに、前に進む速度は恐ろしく遅い。でも諦めない。そういうところ、少し見習いたい。
帰り道、小さな古本屋を見つけた。店先に「旅の本コーナー」とあって、つい立ち寄る。埃っぽい匂いと紙の匂いが混ざった、古本屋特有の空気。棚を眺めていると、30年前の東南アジアの旅行記が目に留まった。パラパラとめくると、写真がモノクロで、今とは全く違う風景が広がっている。でも読んでいると、旅先で感じる「ちょっと迷ってる感じ」は、今も昔も変わらないんだなと気づく。結局その本を買って、店主のおじさんに「良い本ですよ」と言われた。本当にそうだと思う。
知らない街を歩くのは楽しいけれど、知らない道を歩くだけでも、いつもの街が少し新しく見えることがある。明日はまたいつもの通勤路に戻るけれど、きっと今日の散歩の余韻が少し残っているはずだ。次はどの駅で降りてみようか。地図を開くのが、少し楽しみになってきた。
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