窓辺で原稿用紙に向かっていると、隣の部屋から低い話し声が漏れてきた。言葉ははっきりとは聞こえない。ただ、抑揚のない声のトーンだけが壁を通り抜けて、こちら側の空気を微かに震わせている。
「……そういうことじゃなくて」
誰かがそう言った気がした。私は万年筆を置いて、耳を澄ませた。けれど、それ以上は何も聞こえなかった。沈黙が戻ってきて、また時計の秒針だけが部屋を満たした。
書きかけの物語は、ちょうど登場人物が何かを言いかけて止まる場面だった。偶然だろうか。それとも、隣の声を無意識のうちに拾っていたのだろうか。私は原稿用紙の余白を見つめた。言葉にならない何かが、そこに薄く浮かんでいるような気がした。
物語を書くとき、いつも思う。人は言葉で語ることよりも、語らないことの方が多い。言いかけて飲み込んだ台詞、口に出さなかった謝罪、伝えられなかった感謝。それらは消えてしまうのではなく、別の形で残り続ける。沈黙の重さとして、視線の向きとして、ため息の長さとして。
私はもう一度万年筆を取り、続きを書いた。登場人物は結局、何も言わずに部屋を出ていく。それでいいと思った。読む人が、その空白に自分の言葉を重ねられるように。
外では雨が降り始めていた。春の雨特有の、優しくて執拗な音が窓を叩いている。私は原稿用紙を閉じて、その音に耳を傾けた。物語の続きは、また明日。言葉にならないものたちが、静かに降り積もる夜を待ちながら。
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