朝、カーテンの隙間から差し込む光が、昨夜書きかけて放置した原稿用紙の上で細かく震えていた。インクの黒い文字が、まるで水面に映る影のように見えて、ふと筆を止めたあの瞬間を思い出す。
書けなくなったのは、言葉が足りないからではなかった。むしろ言葉が多すぎて、どれを選べばいいのか分からなくなっていた。何を伝えたいのかという問いに、私は答えられずにいた。
窓を開けると、遠くから子どもたちの声が聞こえてきた。何かの遊びに夢中になっているらしい。その声は風に乗って途切れ途切れに届き、意味のある言葉としてではなく、ただの音の連なりとして耳に入ってくる。それでいいのかもしれない、とぼんやり思った。
昼過ぎ、近所の古本屋に立ち寄った。目当ての本があったわけではなく、ただ活字の匂いに包まれたかっただけだ。棚の間をゆっくり歩きながら、背表紙をなぞる。詩集のコーナーで、薄い水色の表紙の本が目に留まった。ページを開くと、最初の一行にこうあった。
「言葉は、沈黙を縁取るためにある」
誰が書いたのかは覚えていない。でもその一行が、朝から抱えていたもやもやを、すっと解いてくれた気がした。そうか、私は沈黙を恐れていたのだ。余白を、空白を、何も語らない瞬間を。
帰り道、夕暮れの空は淡い紫色に染まっていた。影が長く伸びて、自分の輪郭がぼやけていく。ポケットに詩集を忍ばせて、私はゆっくりと歩いた。
明日、もう一度あの原稿に向き合おう。今度は、書かないことも選択肢に入れて。言葉と沈黙の間で、ちょうどいいバランスを探しながら。
夜になって、机の上の原稿用紙を見る。まだ何も変わっていないのに、あの紙がもう違って見える。それだけで、十分だと思った。
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